「上、美人弁護士さんが入ったんですね…」
美容室Lucy。
仕事中のわずかな時間、一樹が凛に話しかけた。
「なんか…所長の知り合いみたいよ。あと、剣崎さんも」
「え?そうなんっすか?」
あれから1週間。
文仁は珍しくお酒を飲んで帰る日が多くなった。
「泉さんと所長、大学の先輩と後輩だってわかって、しょっちゅう酒を飲みに連れて行かれる」
たいして酔ってはいないけど、いつの間にか『青木先生』が『泉先生』になり、今は『泉さん』に変化してるの、気づかないのかな。
「なんか、訳ありみたいじゃん。剣崎さんと青木先生って…!」
急に話に入ってくるので驚いてしまう。
「残柄オーナー、何か聞いたんですか?」
「…気になる…?!」
人差し指を私の目のあたりにクルクル回しながら近づいてくる。
顔を背けながら怒ってやった。
「…やめてくださいよ!トンボじゃないんだから!」
「目を回さないかなぁって思ってやってる」
「回してどうするんですかっ?」
「…食う?」
クルクル回した指をばしっと掴み、そのまま下におろし、弾くように手を離した。
「バカも休み休み言いましょう。いいですか?今の発言、完全な黒!セクハラですからね?」
冷たいなぁ…と言いながら笑う顔は余裕だ。
エスケイ法律事務所に青木弁護士が出入りしている理由は、文仁に聞いた。
「事務全般、それと片付け」
「休暇で帰ってきてるんじゃないの?」
「…のはずだけど。要するに仕事人間なんだろうな」
…文仁は言わないけど、なんとなく気づいていた。
それは文仁が、青木弁護士から、何かを学ぼうとしていること。
時々連れ立ってどこかに行く姿を、Lucyの窓から見かける。
なぜか…苦しくて。
言葉にできない思いが渦巻いて、それが嫉妬の類だったらどうしようかと思っていた。
なんでも素直に話そうと約束したのに、そんなソワソワする気持ちをすんなり打ち明けるほど、私は素直じゃない。
「…ごめん、ちょっと今日、帰れなくなった」
そうこうしているうちに、胸をグサリと突き刺すひとことを言われてしまった。
「もしかしたら…この天気で?」
季節外れの台風が直撃。
思いのほか速いスピードでやってきて、この街にも猛威を振るおうと、牙を向けている。
帰宅した時より風が強くなってきた。
ベランダの物干しを下げ、ランドリーハンガーをしまっておいて良かったと思う。
「あぁ。道路が冠水してて、車を動かせない」
1人…じゃないのは知ってる。
今日も青木弁護士と、社用車に乗るところを見た。
「青木先生は…大丈夫?」
「うん、2人だから平気だ」
言い換えれば、文仁がいるから、青木先生は大丈夫なの?…
ゴロゴロと雷鳴が聞こえてきた。
「こっちも雨が強くなってきたよ…」
「…電話、繋げとこうか」
たったひとことで、暗い心に光が差して…救われたような気持ちになる。
青木先生と2人で泊まるんだろうに、私と携帯を繋げたままでいいと言ってくれたのが嬉しかった。
それでも…横殴りの雨がバシャバシャと窓を打つ音に恐怖が募る。
「…文仁の枕、抱いてていい?」
「ん?…なにそれ、可愛いじゃん」
甘くなったような声に誘われて、心の奥に隠した言葉が顔をのぞかせる。
「青木先生と…同じ部屋に泊まってるの?」
…身動きが取れないんじゃ、仕方ないよね。きっと近隣のビジネスホテルはどこも一杯だろうし…。
世の男性が浮気をした時の言い訳みたいな言葉が頭をよぎる。
だからいいよ。仕方ないよ。
そもそも、咎める権利は、私にはもうないから…
無言が続いて、自分がずいぶん無神経なことを言ったと後悔した。
文仁はもう、私の夫じゃない。
いや、夫だったとしても…愛されて夫婦になったわけではない。
自由を侵害するような事を言ってしまった…「ごめん」と、言葉に出していた。
「もしかして、気になる?」
予想に反して聞き返された。
ここは、本音を言っていいのだろうか。それとも…
「気になる…っ…ごめん」
取り繕う余裕は無くて…携帯の向こうで、文仁が笑った気がした。
「じゃあ安心して。青木先生はホテルの部屋だけど、俺は駐車場に停めた車の中」
「そうなの…?どうして…」
「青木先生と同じ部屋に泊まっても、何も起こらないことはわかってる。でも、凛に誤解されたくなかったから」
何も起こらない、というのは、青木先生を女性として見ていないということ?
それに、私に誤解されたくないって…
「凛、夜は長くなりそうだから、俺の話を聞いてくれるか?」
「うん。…なんでも話して欲しい」
それは…私達が出会った高校時代に、文仁の家で起きたことだという。
「高校の時、義理の母親に性的な虐待を受けていた」
「…え?」
耳を疑った。
多感な時期に、そんなことが。
「そのせいで、自分に好意を寄せる女の子を毛嫌いするようになって、ずっと…誰とも付き合って来なかった」
高校時代の文仁は、ものすごくモテていたけど、確かに浮いた噂を聞いた事がなかった。
孤高で、誰も寄せ付けない雰囲気。
そんな印象は、同窓会で顔を合わせた時も変わらなかった。
だからこそ、私もあの時、文仁と一緒に同窓会を抜け出したんだと思う。
「その後、父親にそれがバレて…離婚することになった。あの女は離婚を嫌がったよ。でも、信頼できる人に紹介された青木先生は、俺の被害を知って慰謝料を請求した上、離婚を勝ち取ってくれた」
…傷ついた文仁を知っている。
だから、大人になったからといって、そんな関係になるはずないと言う。
「青木先生は、支払われた慰謝料は自分の学びに使えと言った。弁護士になれとは言わなかったけど、法律で人を守る勉強がしたいって思ったんだ」
「そう…だったんだ。あの頃…水泳部で一緒に泳いでる頃、そんなに辛い思いをしてたんだね…」
…気づかなかったことを悔やんだ。
「凛だって、当時は家に居場所がなくて辛かった頃だろ」
お互い…身勝手な大人に傷つけられていた。
…私の傷は、父親の死によって書き換えられたけど、文仁は…
「お義父さん…とは?」
文仁のせいではないけれど…愛した人が息子に惹かれて手を出したなんて、その後の父子関係に影響してもおかしくない。
「…他人だよ。凛を紹介したのが最後。もう会うこともないだろうな」
結婚の挨拶に行った時から、静かで口数の少ない人だとは思っていた。
「父さんが、もっと母さんを気にかけて、優しくしてやれば…俺もあんな目に合わなくてすんだ」
「文仁、辛かったね…あの、私…文仁の心を癒してあげたいっていうか、なんていうか…」
携帯越しなのがもどかしい…
目の前にいたら、文仁を抱きしめてあげたいのに…
「凛、君はもうとっくに、俺を癒してるんだよ」
「…え?」
…その時、携帯にピピッという通知音が鳴った。
「ごめん…キャッチかも」
もしかしたら、母か郁からかもしれない。
この悪天候で、何かあったのか…
文仁も同じように思ったのか、対応するよう言ってくれた。
文仁との通話を保留にして、かかってきた着信に出た。
「凛…?お前大丈夫?強風と雷で停電するぞ?…今から行ってやろうか?」
残柄オーナーからだった。