「いえ…大丈夫です。ちゃんと家にいるし、懐中電灯もろうそくも防災グッズも、バッチリなので」
…ろうそく以下は嘘だ。
「確かお前引っ越したじゃん。…実は近くにいるんだよ。行ってやる、じゃなくて、助けてくれない?」
「え…」
現住所を職場に伝えないわけにはいかない。
文仁と暮らしたマンションに戻った時、オーナーに申し出ていた。
…同居を再開したとは、言っていないが。
横殴りの雨は、一層激しさを増して降り続いている。
…いったいどこからの帰りだ?
私が帰宅する時、残柄オーナーはまだ店にいた。
「あの…ここって実は、シェアハウスなんです。…だから、部外者は入れないというか…」
「…よけい問題ないじゃん。一人暮らしの部屋に押しかけるわけじゃないんだから」
1分で着く、と言って…電話は切られてしまった。
…再び文仁に繋いだ。
「お母さんとか郁さんからじゃなかった?」
「違った。残柄オーナーからで、すぐ近くにいるから避難させて欲しいって…」
一瞬で気配が変わる…文仁…?と呼びかけると同時に、玄関のチャイムが鳴った。
「…出ないで欲しい」
悲痛にさえ聞こえる声色に、どうして…という疑問が乗っかる。
「やり過ごして。エントランスで雨をしのげって」
「あ…じゃあ、そう伝えるから…」
「玄関のドアは、絶対に開けないでくれ」
携帯を耳に当てたまま、玄関先に来た。
「おーい…さすがに出てくれよ」
残柄オーナーの声。
「すいません。やっぱり、部外者は入れなくて…エントランスで雨をしのいでもらえますか?」
「えーなにそれ…凛ちゃん、冷たすぎん?」
ノックされる音にビクッとしてしまう。
「すいません、本当に…」
そこにいない方がいい気がして、玄関から一番遠い、自分の部屋に入ってドアを閉めた。
「大丈夫。…もしクビになっても、俺が責任取るから」
文仁の声が聞こえてハッとした。
携帯を耳に当てたままだった…
やり取りはすべて聞こえていただろう。
「平気だよ。…スタッフの家に来るなんてルール違反だって言ってやる。…残柄オーナーは明るくてやり手だけど、距離感バグることも多くて困る」
とはいえ、もし文仁とこんな風に一緒に暮らしていなかったら、あんな状況のオーナーに対応しないとは思えない。
ハッキリ断ることができたのは、文仁にそうしてくれ…って言われたからだ。
「凛狙いだよ、残柄さん。あわよくば…って思ってるな」
「…そんなの、迷惑でしかない」
「さすが、クールだね。凛ちゃん」
それから、どれくらい話していただろう。
気づいたら雨は小降りになって、強風もおさまっていた。
「…明け方には、帰れると思う」
それなら少し寝た方がいいと、私から言って電話を切った。
もう…何の不安もなかった。
頬に人肌を感じた。
指先が首を伝って…後ろに回される。
何かが覆いかぶさって、それが石鹸の香りをまとってることに気づいた。
「…文仁、良かった。無事に帰れたんだね…」
仰向けに眠る自分を、文仁が緩く抱きしめていると気づいて、凛も両手をその背中に回した。
髪が…少し濡れてる。
肌が、しっとりして…シャワーを浴びた後らしい。
「凛…会いたかった」
すぐ近くで文仁の声が聞こえる。
耳たぶに唇が触れて、くすぐったい。
「私も…会いたかった」
すごく素直な気持ちを伝えられたと思う。それほどに、文仁と離れていた一夜は長かった。
「…このまま、抱いていい?」
ゆっくり顔を上げる文仁の目が潤んで、強く自分を求めているとわかる。
…高校時代に受けた継母からの性虐待は、その後の文仁の人生に、どれほど暗い影を落としただろう…
昨日、告白を受けて、抱きしめたいと思った。
「うん。私も、文仁を抱きたい…」
切なげに歪んだ目が、少し伏せられて、長い睫毛を見せつける。
私の体を挟むように閉じ込めて、シャツのボタンをひとつひとつ外し始めた。
「そういえばこの前、ビアガーデンの帰り…起きたらシャツのボタンがいつもより開いてた…」
「ごめん…俺が外した」
クスッと笑う顔。
…いたずらがバレた少年みたい。
「外しただけじゃないでしょ…?」
「うん、キスした」
胸元に残るキスの跡を見て、どれほど驚いたか…
その時と同じように、文仁の唇が胸を這う。
下着まで取り上げたところで、文仁もシャツを脱ぎ捨てた。
…文仁の裸は、高校時代と同じように…綺麗な筋肉をまとっていて。
ふと、この体を愛のない欲望だけで触れた女に怒りが生まれた。
「文仁…」
こんなことをするのは初めてだった。
自分の代わりに文仁を仰向けに寝かせ、馬乗りになる。
覆いかぶさるように抱きしめて、自分から深いキスをしながら…文仁にされたのを思い出すように、体中にキスを、舌を、唇を這わせた。
文仁に愛が伝わりますように。
全部は無理でも…辛い記憶が、私に半分移りますように。
そう思いながら、文仁の男性を愛した。
「凛は…俺の特別…!」
拙い動きを抱きしめられて、再び私を見下ろす文仁。
「汚くて、嫌悪するものだったセックスを、凛としたいと思った」
そうか…文仁にとって、性は…汚らわしいものだった。
「俺の中で、凛だけは…違った。
初めて愛した人なんだ」
凛…と切なく顔を歪める文仁を、なんて美しい人だと思う。
「文仁…愛してるよ…」
これ以上ない素直な言葉を言えて、愛してるよ…の返事をもらえて、初めて感じる揺るぎない幸せの中、深く繋がる喜びを感じ合った。