目次
ブックマーク
応援する
14
コメント
シェア
通報

第28話 郁の決断

「…赤ちゃんができたから、乗り込んできたみたいなんだよね」



郁に呼び出されたイタリアンのお店。

ランチだというのに、郁は当たり前のように白ワインを飲んでいる。


「…はっ?!奥さんと円満だったってこと?…それなのに郁と3年も付き合うなんて…」


なんという男だろう…!

怒りに震えるという感覚を初めて覚えた。


「赤ちゃんが出来るってことは、そういうことだよね。それで、なんかいろいろ自覚したっていうかさ!」


「別れ話は郁からしたんでしょ?

…ちゃんとしっかり、振ってやった??」


もちろーん…と、あっけらかんと言う様子は、いつもの郁。


「でもさ、嫌だって泣かれて、困っちゃった!」


「…ちょっと待って!なによそれっ…」


郁のお気に入りだという洒落たイタリアンレストラン。

あたりは静かに歓談していて、休日の優雅な時間が流れているようだ。


けれど話を聞いて、怒りが頂点に達してしまった。思わず椅子を蹴るように立ち上がった私の手を握る郁。



「ちょーっとだけ…目立ってるよ?」


笑顔の郁に言われて慌てて座ったものの、当事者のくせにどうして冷静でいられるのかわからない。


「…もしクマに会うことがあったら、殴っちゃうかも」


「いいんじゃない?!…訴えられても文仁くんいるしね!」


ケラケラっと笑う郁の言葉に、「そうだね!」…なんて言えるわけないでしょ。


手を出したら負けだ…心の中で、凛は静かに誓った。



好きな人ができた、という話に切り替わったのはその後すぐだった。


「…クマと別れて、そんなにすぐ?」


「うん!…ピピッと来ちゃった!」


「まさか、既婚者じゃないよね?…指輪とか、隠し持ってない?飲み会には参加しないとか、女の人とは距離をあけてるとか…ない?」


言いながら、離婚してからも指輪を外してなかった文仁を思う。


大丈夫だよ!と言いながら、柔らかい笑顔になる郁。


「…凛は幸せそう。よかったじゃん。やっぱ文仁くんは運命の人だったんだ」


「あー…まぁ、そうね。お互い、生い立ちと毒親に苦しめられて、素直になれなかったけどね」


「…龍二さんのことも毒親って言っちゃうんだ?ひどい娘だー!」


ケラケラ笑う笑顔を見ながら、郁はお父さんともパパとも、呼び方を変えないんだな…と思った。


「私…今はパパって呼んでるんだ」


郁はどうして龍二さんのままなんだろう。


「そっか。…私にとっては、龍二さんはいつまでたっても龍二さんなんだよね。もう…父親には昇格させてあげられなーい!」


いつもの笑顔を崩さずに、明るく言うけど…私にはわかる。


郁には…両親に無関心を貫き通された幼少時代の悲しみが、今も色濃く残っていると。


「そうだね。無理しなくていいと思う」


私が幼少時代を乗り越えられたのは…文仁の存在があったからだ。


「郁、どんな不細工でもいいから、誠実な人を好きになってよ。それで、幸せに…ならなきゃ」


いつの間にか涙が流れていて、笑う郁に拭われる。


「今までも、これからも…私は幸せだよ?」


その表情は、見たことないほど大人っぽいと感じた。

…郁はちゃんと言わないし、茶化して笑ってばかりだけど。

クマとの恋愛は、きっと郁を大きく成長させたんだと思う。



それからしばらくして…

郁はクマの奥さんに慰謝料を支払ったと聞いた。


訴えられはしなかったが、自分から頭を下げに行ったらしい。


完全に関係を切り、2度と会わないと約束して…奥さんの前で連絡先を消去したという。


奥さんもそんな郁の行動を肯定的にとり…すべて水に流すと、言ってくれたらしい。




「心機一転、引っ越すわ!」


母が1人で暮らす実家に移り住むというので、私も引っ越しの手伝いに行くことになった。




それなのに…






「久しぶり…凛ちゃん、だよね?」


郁の住むマンションの近くをうろつく人に声をかけられて驚いた…


「クマ…熊川さん?」


どうしてここにいるんですか…と聞こうとして、言葉がうまく出てこない。


「郁が…会ってくれないんだよね」


不思議そうに首をひねる姿は、どこかソワソワと落ち着きがなく、私の向こう側を見ているようで微妙に目が合わない…


「何か、聞いてない?…凛ちゃん」


「…聞いてるも何も…」


熊川さんとは、不倫だと知る前に何度か会ったことがあった。

私の前でもべったり郁にくっついて…「甘ったるい恋人」そのものだったのを思い出す。


「熊川さん、奥さんいますよね?…しかも赤ちゃんが生まれるそうじゃないですか」


「え…っ」と言ったまま、熊川が動かなくなる。


「郁が知ってること、知らなかったんですか…?郁は乗り込んできた奥さんに馬乗りになって殴られて…」


言ってから、あ…っと思った。


もし郁が、そのことを伝えないまま別れたとしたら…


「馬乗り…?妻が?」


途端に顔色を失ったように見える。


「それであんなこと言ったのか…!ちくしょうっ!あの女…」


あの女…というのが、郁を指しているのか奥さんを指しているのかわからない。

でも、言わずにはいられなかった。


「なに言ってるんですか?…既婚なのを隠して郁と付き合ったくせに。

奥さんだって妊娠してるんだから、こんなところに来ないで、いい加減目を覚まして下さい!」


厳しい表情で一喝した凛を、揺れた瞳が映す。

熊川さんはがっくり肩を落として、何も言わずにその場を離れた。


確かに様子はおかしかったが、郁に繋ぐわけにはいかない。

だって奥さんと約束したんだから。


追い返す格好になった熊川の後ろ姿を見送りながら…ちゃんと家に辿り着くようにと祈る。


同時に…既婚だとバレても郁と別れず、妻には子供まで作って…これからどうしたかったのかと思う。


あれもこれも…手に入れたものはすべて自分のものにしたかったということか。

思わず…そこに愛はあるんか?…と、問いかけたくなった。


どちらにしても、今度熊川がここへ来たとして、もう郁はいない。


手放した者の幸せを願って、どうかそのまま忘れてほしい。


凛はそう思いながら、マンションのエントランスをくぐった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?