「…赤ちゃんができたから、乗り込んできたみたいなんだよね」
郁に呼び出されたイタリアンのお店。
ランチだというのに、郁は当たり前のように白ワインを飲んでいる。
「…はっ?!奥さんと円満だったってこと?…それなのに郁と3年も付き合うなんて…」
なんという男だろう…!
怒りに震えるという感覚を初めて覚えた。
「赤ちゃんが出来るってことは、そういうことだよね。それで、なんかいろいろ自覚したっていうかさ!」
「別れ話は郁からしたんでしょ?
…ちゃんとしっかり、振ってやった??」
もちろーん…と、あっけらかんと言う様子は、いつもの郁。
「でもさ、嫌だって泣かれて、困っちゃった!」
「…ちょっと待って!なによそれっ…」
郁のお気に入りだという洒落たイタリアンレストラン。
あたりは静かに歓談していて、休日の優雅な時間が流れているようだ。
けれど話を聞いて、怒りが頂点に達してしまった。思わず椅子を蹴るように立ち上がった私の手を握る郁。
「ちょーっとだけ…目立ってるよ?」
笑顔の郁に言われて慌てて座ったものの、当事者のくせにどうして冷静でいられるのかわからない。
「…もしクマに会うことがあったら、殴っちゃうかも」
「いいんじゃない?!…訴えられても文仁くんいるしね!」
ケラケラっと笑う郁の言葉に、「そうだね!」…なんて言えるわけないでしょ。
手を出したら負けだ…心の中で、凛は静かに誓った。
好きな人ができた、という話に切り替わったのはその後すぐだった。
「…クマと別れて、そんなにすぐ?」
「うん!…ピピッと来ちゃった!」
「まさか、既婚者じゃないよね?…指輪とか、隠し持ってない?飲み会には参加しないとか、女の人とは距離をあけてるとか…ない?」
言いながら、離婚してからも指輪を外してなかった文仁を思う。
大丈夫だよ!と言いながら、柔らかい笑顔になる郁。
「…凛は幸せそう。よかったじゃん。やっぱ文仁くんは運命の人だったんだ」
「あー…まぁ、そうね。お互い、生い立ちと毒親に苦しめられて、素直になれなかったけどね」
「…龍二さんのことも毒親って言っちゃうんだ?ひどい娘だー!」
ケラケラ笑う笑顔を見ながら、郁はお父さんともパパとも、呼び方を変えないんだな…と思った。
「私…今はパパって呼んでるんだ」
郁はどうして龍二さんのままなんだろう。
「そっか。…私にとっては、龍二さんはいつまでたっても龍二さんなんだよね。もう…父親には昇格させてあげられなーい!」
いつもの笑顔を崩さずに、明るく言うけど…私にはわかる。
郁には…両親に無関心を貫き通された幼少時代の悲しみが、今も色濃く残っていると。
「そうだね。無理しなくていいと思う」
私が幼少時代を乗り越えられたのは…文仁の存在があったからだ。
「郁、どんな不細工でもいいから、誠実な人を好きになってよ。それで、幸せに…ならなきゃ」
いつの間にか涙が流れていて、笑う郁に拭われる。
「今までも、これからも…私は幸せだよ?」
その表情は、見たことないほど大人っぽいと感じた。
…郁はちゃんと言わないし、茶化して笑ってばかりだけど。
クマとの恋愛は、きっと郁を大きく成長させたんだと思う。
それからしばらくして…
郁はクマの奥さんに慰謝料を支払ったと聞いた。
訴えられはしなかったが、自分から頭を下げに行ったらしい。
完全に関係を切り、2度と会わないと約束して…奥さんの前で連絡先を消去したという。
奥さんもそんな郁の行動を肯定的にとり…すべて水に流すと、言ってくれたらしい。
「心機一転、引っ越すわ!」
母が1人で暮らす実家に移り住むというので、私も引っ越しの手伝いに行くことになった。
それなのに…
「久しぶり…凛ちゃん、だよね?」
郁の住むマンションの近くをうろつく人に声をかけられて驚いた…
「クマ…熊川さん?」
どうしてここにいるんですか…と聞こうとして、言葉がうまく出てこない。
「郁が…会ってくれないんだよね」
不思議そうに首をひねる姿は、どこかソワソワと落ち着きがなく、私の向こう側を見ているようで微妙に目が合わない…
「何か、聞いてない?…凛ちゃん」
「…聞いてるも何も…」
熊川さんとは、不倫だと知る前に何度か会ったことがあった。
私の前でもべったり郁にくっついて…「甘ったるい恋人」そのものだったのを思い出す。
「熊川さん、奥さんいますよね?…しかも赤ちゃんが生まれるそうじゃないですか」
「え…っ」と言ったまま、熊川が動かなくなる。
「郁が知ってること、知らなかったんですか…?郁は乗り込んできた奥さんに馬乗りになって殴られて…」
言ってから、あ…っと思った。
もし郁が、そのことを伝えないまま別れたとしたら…
「馬乗り…?妻が?」
途端に顔色を失ったように見える。
「それであんなこと言ったのか…!ちくしょうっ!あの女…」
あの女…というのが、郁を指しているのか奥さんを指しているのかわからない。
でも、言わずにはいられなかった。
「なに言ってるんですか?…既婚なのを隠して郁と付き合ったくせに。
奥さんだって妊娠してるんだから、こんなところに来ないで、いい加減目を覚まして下さい!」
厳しい表情で一喝した凛を、揺れた瞳が映す。
熊川さんはがっくり肩を落として、何も言わずにその場を離れた。
確かに様子はおかしかったが、郁に繋ぐわけにはいかない。
だって奥さんと約束したんだから。
追い返す格好になった熊川の後ろ姿を見送りながら…ちゃんと家に辿り着くようにと祈る。
同時に…既婚だとバレても郁と別れず、妻には子供まで作って…これからどうしたかったのかと思う。
あれもこれも…手に入れたものはすべて自分のものにしたかったということか。
思わず…そこに愛はあるんか?…と、問いかけたくなった。
どちらにしても、今度熊川がここへ来たとして、もう郁はいない。
手放した者の幸せを願って、どうかそのまま忘れてほしい。
凛はそう思いながら、マンションのエントランスをくぐった。