残響が消え失せるまで、少年は目を開けられずにいた。
俺はいつからこれほどにまで弱くなっていたんだ。
瞼の奥からの微かな光を感じながら、心の中で呟く。
そして見えない手で心臓を握りつぶされそうな感覚に陥る。
思い出そうとしても、過去数ヶ月にわたる日々と生まれた頃の記憶が無い。
心に強く残り覚えているのは、幼い頃に研究室から逃げ出した記憶。あの日はたしか、雨が降っていた──
◇
記憶の彼方にあるあの日、俺は監視の目を掻い潜り、はるばる
「ハァ……ハァ……」
雨粒が地面を激しく打つ音に混じり、水溜まりに足を突っ込む音が耳に届く。
どうして逃げ出したのかは覚えていない。
俺の体を使った実験は、痛さや苦しさはあるがまだ耐えられるものだ。
とある日には白衣姿の女性研究者が、忙しい合間を縫ってそっと俺の頬に手を当てて、「今日は痛かったね。でも、君の勇気はみんなの希望になるんだよ」と優しく、微笑みが疲れを和らげてくれた。
俺は小さく頷きながら、そのぬくもりに少しだけ安心した。
『この実験はたくさんの人の心を救うんだ』
毎日聞かされてきたその言葉が、俺にとっての励みだった。
クローンとしてこの地に生を受けた俺には、血の繋がりのある両親がいなかった。
しかし彼らは絵本で知った、"お父さん"と"お母さん"と対して変わらない。
俺にとっての彼らはかけがえのない家族だ。
俺は必死に走り続けた。だが、一日も経たないうちに路上で倒れ、捕まってしまった。
意識が戻ると散々怒られたし、殴られた。たくさん愛を感じたな。
それから──それから……
◇
「大丈夫!?──ねぇ、君!」
「な、なに?」
耳元で大きな声が聞こえ、少年は大きく目を見開いた。頬からはピリピリとした痛みが微かに感じられる。
「その……ごめんね。君があまりにも私の話を無視するからビンタしちゃった」
少しふざけたような調子で、少女は軽く笑って肩をすくめた。「まぁ、無視しすぎだよ、相棒」と自分の罪を誤魔化そうとしている。
道理で頬が痛いわけだ。
てか話を聞かないとビンタされるの!?理不尽すぎるだろ。
それはさておきつい先程俺達に立ちはだかっていた敵はと言うと、両手のひらを銃弾で貫かれ、意識のある状態で拘束されていた。
血が絶えず流れ出てるというのに、すました顔をしている。
なんてタフなんだ……てか痛覚の概念を通り越してるだろ。
「お前は何もしてないクセに、俺の事を憐れむ目で見るんじゃねぇッ!」
そう冷たく言いながら唾を吐く。
二人と男の間にはある程度の距離があったので、難なく避けられる。
「私はいつでもアンタを殺せるって分かってる?不要なことを話すお口はチャックしてよね」
「うっせぇッ!お前が俺の胸や頭じゃなくて、真っ先に手を撃つからこうなっただけだ。普通に戦っていれば俺が勝っていた」
何がなんでも負けは認めたくないらしい。
少女は返事をする代わりに苛立ったような大きなため息をついたが、怒るのも無理もないな、と少年の胸の中で呟かれる。
「おい、無視すんじゃねぇッ!」
「アンタさぁー、初めはせっかく強キャラ感出てたのに、そうやって負けを認めないせいで一気にモブキャラ度が上がってるよ」
煽るように放たれた言葉は見事に男の精神を刺激した。
茹でダコのように顔を赤くして体を激しく揺らすが、両手が使えない上に体が縛られているせいで醜くその場に倒れ込む。
「その様子だと息をする度に黒歴史を増やしちゃいそうだね。その前に一旦冷静になろうか──【眠れ】」
男を縛っていた黒紫色に輝く、蔓状の拘束具が少年のネックレスと同様邪悪な光を放つ。
そして間を開けずに「うッ……」と苦しむ声と共に男の意識は途切れた。
今日だけでも何度か聞いてきたからわかる──その言葉に宿る言霊の恐ろしさが。
人に対して容赦なく発泡する人だと知ったからか、ひどく手足が震える。
彼女は俺のことを”相棒”と言ってくれたが、それ以前に”奴隷”だ。切り離そうと思えばすぐにでも関係を壊せるし、殺そうと思えばすぐに生命を断てる。そんな関係だ。
目の前が真っ暗になる。平衡感覚を失いプカプカとした浮遊感に見舞われて──
「はーい、大変だったねお疲れ様」
少年が倒れそうになるが、大切な人を労うような優しい声と共にフワッとした柔らかいものに包まれる。
「──!?」
胸の中に頭を埋める形となり、少年は猛烈な羞恥心を覚える。
今すぐ離れたい、それなのに──体の力が抜けて動けなくなってしまった。
「君ぃ、ずっとその体勢だよね……もしかして嬉しいの?」
「……」
「ちょっとー、無視はやめてくれないー?」
ポンポンと背中を軽く叩かれるが、声を出して反応することすらできそうにない。
ここまでずっと背負われてきたからか汗の匂いが全くせず、柔軟剤の甘ったるい香りからは懐かしさを感じさせ、頭の中をぼんやりさせる。
「そんなに相棒のことが好きなのかなぁ〜?ごめんね、私は友達からゆっくりじっくりと……って聞いてないね」
少年の頭の上から呆れるような声が降ってくるが、少女はすぐに優しい声に変えて続けて口を開く。
「ここには誰も来ないから、好きなだけそこにいてもいいよ」
抱きしめられる温もりが、眠気となって意識をさらっていく。
そして意識の糸が切れそうになった時、事件は起きてしまった──
「あらあらー。若いお人達は公共の場でもイチャラブするのですか、私には刺激が強いですねー」
「「!?」」
煽るように放たれた大人の女の声が、激しく二人に襲いかかる。
今すぐに少年から距離をとって誤解を解きたいという思いと、疲れてるだろうから安静にしてあげたいという思いが少女の頭の中でぐるぐると交差する。
約5秒間うんと考えた末に出された答えは──
「き、君……もう二度と私にくっつくなァー!」
少年を抱きしめる腕はスラリとした体をしっかりとホールドし、少し離れた所に設置されていた大型のゴミ箱に投げ捨てる。
「──ッ!」
意識が覚醒した後に目に映った修羅場に、激しい
相棒と知らない女が、自分についてぶつかるように話し合っている光景(少女が一方的に女に対して疑念を取り除こうとしているだけだが)
何にせよ良からぬことという事は、睡魔の交じった思考でも理解できる。
少女が肩を揺らして話しているが、流れるように無視され、その女は笑顔のまま──こう言った。
「さて、そろそろ本題に入りましょうね。貴方が犯した罪について──」