イーリスとの殺し合いが始まる二ヶ月前、オレは念願の思いで手に入れた【普通】の仕事に勤しんでいた。
「天城てめぇ! 今月も契約ゼロじゃねーか! この役立たずが!」
「すいやせん!」
オレは天城断(てんじょうだん)、33歳、独身、どこにでもいる普通のサラリーマンだ。ゆえあって、異世界にて勇者なんかをしてた経験が100回くらいあるが、いたって普通のサラリーマンである。
「てめぇ! 今月もゼロだったら給料無しにするからな!」
オレのことを怒鳴っている髪が薄くなりつつある細身の男は、オレの上司にあたる人物だ。オレのことを心配して、日々、色々とフォローをいれてくれる。ありがたい存在だ。だから、オレは彼のことを上司様と呼んで敬っている。
「了解しやした! それでは! ゼロにならないように営業に行って参ります!」
「契約取れるまで帰ってくんな! この穀潰しが!」
「へい! 承知!」
そしてオレは、カバンをもってニコニコと部屋を出た。本社ビルの廊下を進み、エレベーターの下りボタンを押す。8台あるエレベーターの内、一つが到着したので中に入って一階のボタンを押した。大きなエレベーターの中には誰もいない。
オレはさっきのことを思い出して、わなわなと震え出した。
「……くぅぅぅ……普通のサラリーマン最高ー!」
雄叫びと共に両腕を上げていた。テンションが上がって、ついついやってしまったのだ。
なぜ怒られたのに喜んでいるのか、だって?
そりゃあ、オレがずっと普通のサラリーマンに憧れていたからだ。
オレは、15歳の頃から、クソ女神どもに『勇者適性がずば抜けている』とか言われ、一年のほとんどを異世界転生で消費させられてきた。
だからオレは、サラリーマンはおろか、まともに学生生活を送ることもできず、今の33歳まで異世界尽くしで過ごしてきたのだ。
だから、こうして、保険の営業マンとして、普通のサラリーマンとして、大企業で働いていることがすごく嬉しかった。
上司様がキレてたような気もするが、全然気にならない。異世界転生の魔王討伐特典として得たこの【普通】の仕事は絶対に逃したくない。
オレはここで普通のサラリーマンとして、【普通】に生きていくのだ!
「一階でございます」
エレベーターのアナウンスが流れ、扉が開く。オレは軽い足取りでロビーへと向かった。
今日は飛び込み営業100件やってみよっかな♪ ルンルン♪
「出陣ですか? 勇者ダン、いってらっしゃいませ。ご無事のご帰還をお祈りしております」
「……」
受付嬢が座るカウンターから、変なセリフが飛んでくる。そこを見ると、眠たげな目の金髪美少女がオレのことを見つめていた。
他の受付嬢二人は『またか』みたいな顔で笑っていて、お客さんはポカン顔だった。
「おい、イーリス」
「なんでしょうか、勇者ダン」
「その勇者ってのをやめろ。オレは普通のサラリーマンだ」
「私にとって、あなたは勇者ダンです。やめません」
「こいつ……」
「あはは、天城さん、イーリスちゃんのことは任せて。営業いってらっしゃい」
「ふぅ……ありがとう、成瀬さん、よろしく」
イーリスの隣にいる受付嬢に会釈して、出入り口へと足を進める。外に出てから振り返ると、イーリスが無表情な顔で手を振っていた。
「……」
それを一瞥してから、手を振り返さずに営業先に向かう。ほんと、あいつは一体なんで受付嬢なんてやってんだ。
あいつは、オレを何度も異世界に転生させた女神の一人、イーリスという。腰まで伸びた美しい金髪にエメラルドグリーンの瞳、整った顔立ちは十代かと思わせるほど若々しくて美少女であった。女神だから数100歳だった気がするけど。
そんなイーリスが、なぜ現代日本の保険会社の受付嬢をやっているのか?
オレも未だに謎だ。
この前の100回目くらいの異世界転生を終えたとき、オレが『サラリーマンになりたい』と神に願ったら、なぜか『イーリスも付けとくね』と言われて、本当にあいつもついてきたのだ。
訳がわからん。謎だ。
とにかく、イーリスとは、何度も異世界にて一緒に旅をした仲なのだが、今は同じ会社の同僚になっている。同僚になってから、三ヶ月くらいが経過した頃だろうか。
まぁいい! あのよくわからん女のことは忘れて営業しよう!
「今日は一件くらい契約取れるといいなー! あー! 楽しいなー! サラリーマンって!」
そんな独り言を呟いて、オレは地下鉄の駅へと続く階段を下り始めた。