夜の21時、オレは本社ビルの前まで戻ってきた。
飛び込み営業の結果は……惨敗だ……
「うまくいかないもんだなー! でも! これが営業マンの【普通】だよな! さっ! 報告書でも書いちゃうか!」
惨敗なのに楽しげなオレは、報告書を書くためにビルの中に入り、自分のデスクに向かおうとする。
すっかり遅くなってしまったので、受付嬢たちは帰っている時間だ。だから、あいつに遭遇することはないだろう。
「おかえりなさい、勇者ダン」
「……」
首を横に向けると、ロビーのソファに座ったイーリスが小さく手を振っていた。受付嬢の服から、OLらしいスーツ姿に着替えている。紺色のスーツにタイトスカートで、パンスト越しに美しいおみ足が視線を誘導してきた。
頭を振って冷静になり、あいつの無表情な顔を見る。
「……なぜ、まだいる?」
「勇者ダンを待ってました。健気な少女ですね?」
言いながら首を傾げるイーリス。自分で言っておいて、よくわかっていないという様子の顔だ。
「知らんがな。なんだそのセリフ。てか、おまえ少女って……」
「飲みにいきましょう、勇者ダン」
「また唐突だな……なんなんだよ、一体」
「今日は金曜日です。花金は私と飲む約束です」
「あ、もう一週間経ったのか。楽しすぎて、曜日感覚なくなってたわ」
「それはなによりです。では、飲みに行きましょう」
「あー……報告書書いてからでもいい?」
「いいですよ。私はずっと待ってます。あなたのことを」
「……なにそれ……遅くなって怒ってる? もしかして」
「いいえ? なぜ怒るんですか? あなたを待つことも楽しいのです。私は」
「さいですか……」
「はい」
真っ直ぐに、エメラルドグリーンの目で見つめられた。眠たげな顔をしてるし、無表情なくせに、やたらと勘違いさせるようなセリフを吐いてくる。
オレが童貞だからって、男心を弄んでからかってるのか?
十代のあの頃なら、勘違いしていたかもしれない。てか、実際、あのときのオレは、こいつの美貌にやられていたっけか。それも遠い昔の話だ。
「……まぁいいや……15分くらいで戻ってくるから、待ってて」
「わかりました。お待ちしてます」
オレは少しだけドキドキしながら、エレベーターのボタンをポチっと押した。
♢
15分後、報告書をサクッと書き終えたオレは、エレベーターに乗って本社ビルのロビーへと向かった。エレベーターを降りて待合スペースに向かうと、オレのことを待っている女神様がこっちを見ているのを確認した。立ったまま。
「……」
気まずいので、小走りで近づく。
「何で立ってるの?」
「勇者ダンが待ち遠しくて」
「……」
また勘違いさせるようなことを言ってくる。こいつとは何度も冒険したし、そんな仲ではないのに、だ。
「どうかしましたか?」
「いやべつに? どこに飲みに行く?」
「同僚にオシャレなバーを紹介してもらったので、そこに」
「ああ、成瀬さん?」
「そんな名前だった気がします」
「……同僚の名前くらい覚えろよ……まぁいいや。行こうぜ」
「はい。ご案内します」
ということで、イーリスについて本社ビルを出た。しかし、イーリスのやつがスマホを持って地図を開き、それを時計回りに回転させ始めたので足を止める。
「このバーは、どこにあるのでしょう?」
首を傾げているので、スマホを貸してもらってオレが先陣を切ることになった。
女神だから現世のテクノロジーには疎いのか?
しかし、こいつにはどこかポンコツみを感じる。
スマホの画面を見ると、成瀬さんが紹介してくれたバーは、オレたちの会社から二駅離れた場所だった。
地下鉄に乗って、駅から徒歩で数分のバーの前までやってくる。ビルの一階にあるこじんまりとしたバーだった。ドアを開けると、薄暗い落ち着いた雰囲気で、五十代くらいの男性のマスターがシェイカーを振りながら会釈で迎えてくれた。右手に六名ほどが座れるカウンターがあって、左手に二組分のテーブルがある。
オレとイーリスは、一番奥のカウンター席に並んで座ることにした。オレたち以外の客は、テーブル席に一組しかいない。
「たしかにオシャレなバーだな」
「そうなんですか?」
適当なカクテルを頼んで会話を始める。
「そうなんですかって、おまえ……オシャレだから来たかったんじゃないのか?」
「いえ、私は勇者ダンを誘うならどこに行けばいいか尋ねただけで。『オシャレなバーに行けば雰囲気が良くなる』と言われたのでココに決めました」
「……」
なんなんだこいつ、ずっと甘いセリフばっか吐きやがって……
普通の童貞なら勘違いしちゃってるからな! 気をつけろ!
冷静になろうと努め、気持ちを引き締めていると、イーリスがカクテル片手にこちらをじっと見つめてきた。
「勇者ダン」
「……なに?」
「雰囲気、良くなりましたか?」
「どういう意味で言ってんだ?」
「男女関係的な意味です。ドキドキしますか? 私のこと、気になってきたりしますか?」
「……は?」
なにを質問されているのかよくわからなくて、カクテルを一口飲んでから、もう一度、隣のイーリスを見る。
彼女は、ちょうど、カクテルについたチェリーを摘んだところで、それを唇に運んでいった。
「……ちゅぱっ」
唇から水音が聞こえたような気がした。実際には上品な所作で音なんかしなかったと思う。でも、イーリスみたいな金髪美人が物を食べてるのって、それだけで絵になるんだな、なんて考えていた。
……で、なんだっけ? ドキドキしますか? だっけ?
「はじめて異世界にあなたを召喚したときも、こうして、二人並んで食事を楽しみましたよね」
「へ? あ、ああ……そんなこともあったかもな……」
さっきの『ドキドキしますか?』という謎質問については言及されず、話題が切り替わった。今日はずっとイーリスのペースだ。
「勇者ダンの異世界転生一回目、その記念すべき一回目は、私による転生でした」
「ああ、高校一年の入学式の帰り道、突然転移魔法陣で転移されたやつだな。おまえと行った世界だから、ベルクラフトか」
「はい。あのときの私は、転生勇者なんてろくな奴がいないと思っていました」
「はは、まぁ、オレを筆頭にろくな勇者はいないかもな」
「いえ、あなたは素晴らしい勇者です。私はあなたに会って、勇者に対する認識を改めたのです」
「なんだよそれ……」
カクテルを見ながら、遠い目をするイーリス。きっと、こいつは、あのときのことを思い出しているのだろう。