「お父様! いらっしゃるんでしょうお父様! 一体どういう事ですか!?」
うららかな昼下がり。お母様と一緒に中庭でお茶をしていると、王宮から帰ってきたらしい姉の怒鳴り声が屋敷中に響き始めた。温厚な彼女がここまで怒る程の事を父におねだりした自覚はあるので、息を潜め聞き耳を立ててみる。
「どうしたもこうしたもない。王子にはシャルロットの方を嫁がせるから、お前がアトラス領の伯爵に嫁げ。この話は王家も了承している……こんな事でわざわざ煩わせるな」
「何故今になって!? 王子と私はもう婚約式まで済ませているんですよ!?」
普段は聞き心地の良い柔らかな声が、怒りで凄んでいる。迷惑な……と吐き捨てたお母様は、不愉快そうにカップの中身を飲み干した。
「母の身分だけが取り柄の女が煩いこと。それ以外は全て貴女より劣っているくせに、自分の方が王子に相応しいから辺境伯は嫌だとでも言うつもりかしら」
「……さぁ、どうなのでしょうね」
通常のご令嬢ならば、お母様の言う通り婚約者が王子から伯爵になった事に憤慨するのだろう。けれど……彼女が怒っているのは、そんな自分本位な理由ではないだろう。それが己惚れでも盲目でもないと分かるくらいには、私はずっと彼女を眺めてきた。
そうこうしている内に、お父様と彼女の会話は終わったらしい。感情的になっているからなのだろうか、王宮に行っていた分普段よりも豪華なドレスを着ていたからなのだろうか……最近は全く気にならなくなっていた彼女の足音が、少々覚束ない音になっている。
「……シャルロット」
無事ここまで辿り着いたらしい彼女が、私を見下ろしながら名前を呼んでくれた。途端にお母様の顔が分かりやすく歪んだので、私も表情を凍らせる。
「もう既にご存じの話だと思っておりましたわ。誰も貴女に教えて下さらなかったの?」
「教えてくれなかったわね。式の打ち合わせだと思って王宮へ行って、そこで初めて聞いたから驚いたわ」
「あら、そうだったんですね」
感情が表情に乗らないように。お母様を刺激しないように……お姉さまって呼ばないように。全神経を集中させて、人形になったような心持ちで会話を続けていく。
「でも、もう決まった話です。アトラスは遠いから、もう準備をなさった方が宜しいのでは?」
「シャルロット、どうして?」
憂いを乗せたアメジスト色の瞳が、真っ直ぐに私へと向けられた。あまり見つめ合っていると決心が揺らぎそうなので、扇子を広げて口元を覆い、彼女のお腹辺りへと視線を下げる。
「今回の交代は、他ならぬ貴女からの希望だと聞いたわ。どうして、そんな事を?」
「簡単な話ですわ。私の方が、貴女よりも王子に相応しいと思ったから」
慈悲深くて心優しい貴女よりも、計算高くて小賢しいと揶揄される私の方が。貴女よりも余程、王宮内で上手いこと立ち回れると思ったから。
「それはそうかもしれないけど……でも、こう言っては何だけど、王子よりも伯爵の方が、貴女には」
「しつこいわね! お前よりもシャルロットの方が優秀だから王子の相手に相応しい、お前なんて母の身分以外に何の取り柄もないからお払い箱になったんだって、何故分からないの!?」
ヒステリックな横槍が入ってきたので、一瞬だけ眉をしかめてしまった。少しくらいなら会話を続けても大丈夫だと思ったのに。ちらりと確認した懐中時計は、十五時四十五分を指している。あと十五分……収拾がつかなくなる可能性があるから、一旦お母様には席を外してもらおう。
「本気でそう思ってらっしゃるの!? お義母様はシャルロットが大切ではないの!?」
「あんたの母親になった覚えは無いわよ!! 目障りだから今すぐ消えて!!」
「貴女は今のクラウンディール侯爵夫人なんだから名目上はそうでしょう!? ご自身の立場を忘れたの!?」
「うるさいうるさい! 誰か、こいつを摘まみ出して!」
完全に癇癪を起こしたお母様を落ち着かせながら、近くに控えていたメイド複数人にお母様を部屋に連れて帰ってもらうよう頼んだ。私じゃなくてあいつの方よと叫ぶお母様へ、ここじゃ落ち着いてお茶の続きが出来ないから仕切り直しましょうと伝えこの場から退場してもらう。
「……申し訳ないけど。相変わらずね、あの人」
「ここ最近は上機嫌だったんですけどね」
「それは、貴女の方が王子に嫁ぐ事になったから?」
「はい」
淡々と答え、不自然にならない程度に視線を下げる。あの人は、王家の血を引く前妻の娘じゃなくて、自分が産んだ方の娘を王子に嫁がせたくて一生懸命だったから。一度跳ねのけられた事がある分、余計に嬉しかったのだろう。
「……本当に、良いの?」
再びアメジストが向けられた気配がした。それに、勿論ですわと答えて顔に微笑を張り付ける。あと十分。
「此度の申し出が認められたという事は、私の努力が、実力が日の目を見たという事に他なりませんもの。漸く、王家も身分より力量を見て下さるようになったんだわ」
「そうかしら……とても、まだそうとは思えないけれど」
「黎明期というのはそういうものです。自分が先駆者に……なんて烏滸がましい事を言うつもりはありませんけれど、まぁ、私の方が貴女よりは余程お役に立てると思いますし」
意地悪に見えるように、薄く笑って。想定通りお姉さまの表情が曇ったので、胸に突き刺さるような痛みには気づかないふりをする。
「……だからこそよ。貴女の方が私よりも綺麗で可愛らしくて、勉強も出来て運動も出来て優秀で……なんてのは分かっているわ。でも、だからこそ、王子なんかには勿体ないって思っちゃうじゃない」
「まぁ酷い。仮にも婚約者を……いえ、元婚約者ね、元婚約者をそんな悪し様に言うなんて」
「貴女だって知らない訳じゃないでしょう。あの王子の噂」
「それは勿論存じてますよ。それでも、あの方はこの国の王子様です……いずれ王となるであろう、ね」
正直、お姉さまの言う通りあの男にそんな度量はないと思う。妹である第一王女様の方が、余程王としての資質を持ってらっしゃると思うが……それでも、きっと王子の王位継承権や順番が覆る事はないのだろう。この国の、特に貴族社会では、実力よりも生まれ持った身分がものを言うから。
「シャルロット」
「お迎えに上がりました」
お姉さまが口を開いたのと、とある男性が現れたのは同時だった。お姉さまは驚いた声を上げて、もう一人の声の主の方を振り返る。
「貴方は?」
「初めまして。私はローディング・アトラス、国境沿いのアトラス領を治めている伯爵でございます」
「え? アトラス伯爵? 何故ここに?」
「私の婚約者がシャルロットから貴女、スカーレット様に変更されたと聞きましたのでね。こちらも式が近いですから、お迎えに上がった次第です」
「どういう事ですか? お迎えって……きゃあ!?」
お姉さまの体が宙を舞い、アトラス伯爵に抱え上げられた。ああ、良かった。もう大丈夫だ。
「降ろして下さい! まだ話が!」
一生懸命お姉さまが抵抗しているが、どこ吹く風といった様子でアトラス伯爵は歩いて行く。一瞬だけ彼と目が合ったタイミングで、お姉さまに気づかれないように会釈した。