くつくつ……と、笑うような、からかうような声が響いた。
低く、艶やかで、それでいて妙に愉快そうな──明らかに男性の声音。
その声が、どこからしているのかは、誰にでもわかった。
母山羊──今まさに赤ちゃんの仇を討てと叫んだ、その母山羊の口元から、確かに声は漏れていた。
だが──それと同時に、誰もが混乱していた。
なぜなら、あの優しく澄んだ声の母山羊が、そんな低く男めいた声を出すはずがない。
認識が追いつかない。
脳がそれを“現実”として処理するよりも早く、母山羊が再び口を開いた。
母山羊「……おいおい、聞こえなかったのか?」
その声は間違いなく、さっきの笑い声と同じだった。
沈黙。誰もが声を失う。
その中で、幸人だけが、硬直した声を絞り出した。
ゆきと「お、お前……は誰だ。……狼では、ないのか……?」
母山羊はれいの方へちらりと視線を向け、くつ、とまた喉を鳴らした。
母山羊「それは……そこの坊主が、少しは気づいていたみたいだな。なぁ、坊主?」
れいは目を見開いたまま、その言葉を受け止めた。
そして、ぽつりと──しかしはっきりと、答える。
れい「た、多分……僕たちと……“同じ生き物”じゃない、と思う……」
また沈黙。
意味を理解できず、全員がれいの方を見た。
どうご「……おい、生き物じゃねえって、なんだよ……?」
りこ「そ、そうよ、ちゃんと……生きてるじゃない……。だって……」
戸惑いが広がる。そんな中、れいはおどおどと口元を押さえ、しどろもどろに言葉を探す。
れい「え、えっと……その……」
しかし──母山羊はくつくつと笑っていた。
母山羊「そこまでわかってれば……まぁ、いい"目"をしてるよ、坊主」
含みのある声でそう言うと、今度は幸人が一歩前へ踏み出した。
ゆきと「……だから、おまえは誰なんだよ……っ!」
痺れを切らしたように、声を張る。
母山羊は肩をすくめ、また微笑んだ。
母山羊「焦るなよ。──“まだ返却期間まで、四日もあるんだろ?”ゆっくり、落ち着いて、呼吸を整えて、冷静に、クールにいこうぜ」
その言葉に、全員が凍りついた。
“返却期間”──この図書館の世界においての、ルール。
その言葉を知っているということは、明らかに“物語”の外側にいる証だ。
母山羊は、ちらりと赤ちゃんと狼の方を見ると──
パチンッ、と軽やかに指を鳴らした。
すると、指が鳴った後すぐ赤ちゃんが大きな声で叫ぶ。
赤ちゃん「──ママーッ!!」
赤ちゃんの甲高い、嬉しそうな声が小屋に響いた。
全員の視線が、一斉に抱き合っている赤ちゃんと狼の方へと向く。
──そこにさっきまでの“狼”の姿は、なかった。
赤ちゃんが抱きついていたのは──見覚えのある、母山羊の姿だった。
りこ「な、なによ……これ……」
おとは「何が、起きているんですの……?」
混乱の中、母山羊が異変を感じ、ハッと何かに気づき、手元を見つめる。
母山羊「……も、戻ったの……?“本当の”姿に……」
母山羊は元に戻ったその光景に、また涙がこぼれる。
どうご「……な、何が起きてるんだよ……っ」
──再度、パチンッ!という音が鳴った。
だがそれは先ほどとは違う、乾いた鋼のような響き。
耳に残る音ではなく、空間そのものを“切り替える”ような合図。
そして──
音の方に振り向いた瞬間、そこに“いた”。
さっきまでの母山羊の姿は無く、見たことのない男が、立っていた。
光でも闇でもない空間に溶け込むような紳士的な黒衣。
肩まで垂れる銀白の髪が、空気の流れに逆らうように揺れている。
鋭く吊り上がった瞳は、何もかもを見透かすように冷たく、だがどこか愉悦の色を宿していた。
その男は、ゆっくりと一歩、前へ出る。
息を呑む者すら、声を上げることができなかった。
肌に無数の棘が刺さってくるような痛みのような感覚で空気が急速に張り詰めていくのを感じて動くことすら出来ない。
そして男は、わざとらしい芝居がかった口調で、ゆっくりと名乗る。
???「──我は、ロキ」
その声は低く、静かだった。
だが、耳に届いた瞬間に、背骨が氷でなぞられたかのような寒気が走った。
誰よりも先に、幸人の目が大きく見開かれる。
あまりにも自然に、あまりにも当然のように“神の名”を名乗る男。
ロキ「欺き、閉ざすもの。神を弄び、秩序を崩す……それがこの、私」
その言葉に、空気が一変した。
まるで舞台の照明が切り替わったように、小屋の周囲の空間が不気味な静けさに包まれていく。
神威は静かに構えなおす、道後の拳が音を立てて握り締められる。
莉子と音羽が、本能的に一歩退いた。
幸人の喉が鳴った。
ゆきと「……お、おい……“ロキ”って……あのロキ、なのか……?」
男はくつ、と口元を歪め、愉快そうに笑った。
ロキ「あぁ。──今までみたいな“偽もん”じゃねぇぜ。正真正銘“本物”の神さ」
にやりと笑い、くつくつと喉を鳴らす。
どうご「おい、どうしたんだよ。こいつを知っているのか?」
幸人は呼吸を整えようとするが、肩が震えていた。
ゆきと「……こいつが言っていることが本当なら、ロキは──“北欧神話”に出てくる神だ……。気分屋で狡猾……“神ですら欺く”とされてる。秩序を破り、混乱を引き起こす。神の中でもまた異質。行動が読めないことから……ついた異名が……“トリックスター”」
言葉を区切るたびに、声が掠れていく。
ゆきと「──あと……この“ロキ”という神は……“神を殺した”神だ」
その言葉に、全員が凍りついた。
莉子と音羽が小さく息を呑む。
りこ「……な、なんで……神様がこ、こんなところに……いるのよ…」
おとは「こ、こんなの……あ、あんまりですわ……」
目に浮かぶのは、怯えと絶望。
だが、その横で──神威は静かに構えていた。
そして、道後が吠える。
どうご「おいっ!弱音なんて吐いてる場合じゃねぇだろ!神だろうがなんだろうが、やるしかねぇんだよ!」
どうご「こいつを倒さないとかえれねえんだぞ!」
その声に、莉子と音羽も歯を食いしばる。
りこ「……帰りたい……っ。……やるしか……道はないんだ…よね…!」
莉子が深く息を吸い、前を向く。
幸人もまた、必死でどうすれば切り抜けられるか考えていた。
ゆきと(……俺の“能力”が…神相手に通じるかは…わからない……けど……!)
──幸人が口を開こうとした、その瞬間だった。
ロキ「……おいおいっ。待った、待った!」
ロキが両手を前に出し、ぱたぱたと振る。
ロキ「さっきの言葉、ほんとに理解してんのか? “及第点”って言っただろ」
幸人が目を細めた。
ゆきと「……及第点……?」
ロキ「そう。つまりは──まぁ、“ギリギリ合格”ってことだよ」
にやり、と口の端を吊り上げる。
ゆきと「“合格”……?この序文書を、完結したってことなのか……?」
全員が息を呑む。
ロキは肩をすくめるようにして笑う。
誰もが言葉を失っている。
今、この奇妙な神の「及第点」と口にしたその意味とは──
そして、ロキという“神”がここに介入したその理由とは──