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4 先生は暴く

 どさりと重い体を倒したとき、暁月の心はからっぽだった。

 父も兄を弔ったときこんな気持ちだっただろうかと思った。体の中に空洞ができて、自分が足をついているのかさえあいまいな心地になる。

「同じにしたら、兄さんは怒るかもな」

 父と暁月は違う。父は病気で兄を失ったが、暁月は……自らの手で、友人の春海を刺したのだから。

 教会の裏の墓地。胸から血を流して倒れた春海を、暁月はどうしてこんなに冷静にみつめているのかわからなかった。

 けれど春海の息はもうなかった。それを後悔する感情も、暁月は持っていなかった。

 見上げれば真昼とは思えない暗い空だった。

 週明けに聞いたときは、一週間曇天のはずだった。だが空は重い雲に耐えられず、まもなく季節外れの大雨が降って来そうだった。

 暁月は手に持った刃物を、春海の方へ投げる。刃渡りも機能も平凡な包丁は、あっけなく春海の上を転がって止まった。

 春海を墓地に呼び出して、行為に及んだだけ。こんなずさんな殺人、すぐに警察に捕まる。隠れるつもりも、ない。

 そう思ったから、かえって大胆になれたのだろう。

「……最後に一度だけ、カウンセリングとやらを受けてみるか」

 今は緊急閉校しているに違いないのに、暁月の足は学校に向かっていた。

 どうしてか面談室には高宮がいる確信があって、暁月は泣く寸前のような空の下をうつろに歩き始めた。




 面談室の窓を忙しなく雨が叩いているのが、遠い世界のように聞こえる。

「よく来てくれましたね。どうぞ、掛けてください」

 そう最初に労うのがカウンセリングの決まりなのか、高宮は優しく暁月に声をかけた。

 毎週水曜日の午後三時半から五時。確かに暁月はその時間通りにやって来たが、殺人事件の起きている今にその平常はあてはまらないだろう。

 学校も生徒は登校していないはずなのに、高宮は昇降口を内から開けて暁月を招き入れた。まるで暁月が来ることが、最初からわかっていたようだった。

 面談室には初めて入ったが、四畳ほどの狭い個室だった。窓が一つ、テーブルが一つ、椅子は二つ。あとはテーブルの上に時計が置いてあるだけの、質素な作りだった。

「どうされましたか?」

 その中で高宮瑞希だけは、芸術品のように整った存在だった。華奢な体の上に小さな頭が乗っていて、作り物めいたその綺麗な唇が言葉を話すことが一種異常のようでもあった。

 暁月は椅子に掛けると、懺悔というにはあまりに平坦な声で言った。

「……先生。僕は殺人を犯しました」

 高宮はその言葉を聞いたときも、動揺らしい色を見せなかった。どうぞ続けてというように、少し首を傾けて暁月の言葉を待つ。

「気が付けば目の前に刃物があったのです。僕は……吸い込まれるみたいに、それを手に取っていました」

「これですか?」

 高宮は机の下から何かを取り出して置いてみせる。それを見た途端、暁月は反射的に身を固くしていた。

「なんで……!」

 それは春海と一緒に墓地に捨てたはずの包丁だった。けれど血もついていなければ土にも雨に濡れてもいない、綺麗なままの姿だった。

 高宮はゆったりと微笑むと、大切そうにそれを手に握る。

「落としてしまって、ずっと探していたのです。やっと私のところに戻って来てくれた」

「落として……探していた?」

「はい。道具も時々意思を持つものです。この子はとても正義感が強くて……「悪を貫く」意思にあふれているんですよ」

 高宮の言葉を、暁月は何一つ理解できない。高宮が得体の知れない化け物のように見えてきて、さっと体に震えが走った。

 高宮は澄んだ黒々とした瞳で、ふいに暁月の中を見透かすように目を細めた。

「あなたの心にもありますね。……澱が」

 ガタンと音を立てて、暁月は席を立った。……早くこの異常者から離れなければ。彼の言葉は理解できなくても、体は防衛本能に従って動いてくれた。

 高宮はそんな暁月に、先生はあなたを攻撃するつもりはないですよと言うように言葉をかけた。

「いいんですよ。澱のない人の方が珍しいのです。水があふれてしまわなければ、平常に人生を終える」

 けれど高宮は悠然と椅子に掛けたままだった。刃物を手に握っているという異常行動さえなければ、生徒に向き合う先生として少しも欠けたるところはなかった。

「……僕の人生は、これで終わるんですか」

 ふいに暁月は、理不尽な運命に直面したように吐き捨てていた。

 春海を刺した行為は、周到に練ったものでも闇に葬るように画策したものでもない。この面談室に来たのだって、自首する前に立ち寄ったに過ぎなかった。

「先生さえやって来なければ、誰も死ななかったのではないですか」

 まるですべての憎悪をぶつけるように言ったのも、暁月は自分の言葉とは思えなかった。

 けれどそのとき、高宮は美しくまばたきをした。それはいつか暁月が見惚れた、繊細な所作だった。

 高宮はくすっと、少年のように微笑んで言う。

「観察対象に観察されるというのも、なかなか不思議な心地がするものですね」

 暁月はとっさに馬鹿にされたのかと思った。けれど高宮はすぐに微笑みを収めて、先生らしい冷静な教育者の目で暁月を見上げる。

「短い間に何人ものカウンセリングをさせてもらいました。でも……時間を守ってやって来たのはあなただけだった。立派です」

 高宮はまっすぐに暁月を見据えて率直にほめると、つと手を伸ばした。

「……だから、あなたには少しだけ時間をあげましょう」

 暁月は彼のそこからは手が届くはずもないのに……一瞬高宮に、頭を撫でられたいと思った。

 やはり自分は彼に甘え心を抱いているのだ。そう恥じるように思ったとき、高宮は手元の置時計を手で叩いた。

 リン……と鈴のような音を立てて、時計が止まった……ように見えた。

 暁月の目の前がぐにゃりと歪んで、立っていられなくなった。足元が消えたような気配に、床にしりもちをつく衝撃を思って、とっさに目を閉じた。

 けれど暁月に衝撃はいつまで経ってもこなかった。それどころか、小さな喧噪の中に包まれていた。

 暁月がそろりと目を開くと……そこは教室だった。

「高宮瑞希です。よろしくお願いします」

 教壇の上、担任に紹介されて顔を上げたのは、初めて会ったあの日の高宮瑞希だった。


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