そこは暁月が平常すぎて嫌気が差していた、始まりの日のホームルームだった。
教壇の上の高宮は、記憶の中と違わず、作り物めいた繊細な面立ちで微笑む。
「毎週水曜日の夕方三時半から五時まで、面談室でカウンセリングを実施しています。希望される生徒さんは、面談室の前の用紙に記入して箱に入れてください」
その言葉も聞き覚えがある。一言一句までは覚えていないが、おそらく以前聞いた言葉と同じだろう。
もしかしたらと思って辺りを見回せば、クラスには流々も、夾助も、春海も席についていた。
暁月はこれが現在なのだと思い直す。信じられないが……時間は、殺人が起こる前に戻っている。
どうして、どうやって。その理由や仕組みを解くより、暁月にはまだ平常な倫理観が生きていた。
……今ならまだ、殺人を止められるのでは。ふいに芽生えたその使命感は、平凡な自分を諦観していた暁月に波紋を投げかけた。
それは昼休み、面談室の前で立ち止まっていた流々を見たときのことだった。暁月は水があふれるように、流々に声をかけていた。
「矢野さん、何か悩み事?」
暁月と流々は中学校からクラスが一緒になったことはあったが、あまり二人で話したことはなかった。
「成田くん……?」
だから暁月が声をかけたとき、流々は不思議そうに大きな目で見返してきた。
流々はいつも元気な女の子たちの陰に隠れて目立たない。けれど面倒なクラス委員の仕事を嫌うこともなく、おしゃべりをすることもなく、いつも静かに掃除をしている子だった。
……そんな姿を知っていると、刺されて亡くなるなんてあんまりだと強く思う。
暁月は多少の不自然さを承知で、思い切って言葉を続ける。
「その……今日来たばかりの先生より、見知ってるクラスメイトの方が話しやすいこともあるんじゃないかって。家、同じ方向だろ。もしよかったら、歩きながら話そうよ」
暁月は、何だか頼み込むように言ってしまった。でも彼女が面談室に入って高宮のカウンセリングを受けるのは、殺人のレールに乗るような気がして恐ろしかった。
流々は手に取っていたカウンセリング用紙を置いて、一息分だけ暁月をみつめた。
流々は、淡い声でそっと答える。
「一緒に下校は……夾助くんと約束があるから、できないけど」
「あ……そ、そうだよな。ごめん」
暁月はいつも流々と夾助が一緒に下校していることに気づいて、自分の提案が突っ込みすぎだったと反省する。
でも流々は小さな声で、はにかむようにお礼を言った。
「ううん。……ありがとう」
暁月はその優しい表情にこくんと息を呑む。けれどそれは一瞬のことだった。流々はその柔らかい表情を陰らせて、どこか寂しそうに言う。
「心配してくれて、うれしかった。そうだね、今日来たばかりの先生に相談するのは、ちょっと慌てすぎだよね」
流々はカウンセリング用紙をトレイに返すと、暁月に「授業だね。行こう」と告げる。
暁月は、まちがったことをしたつもりはなかった。刃の持ち主だという高宮。彼から逃れるのは、殺人から流々を遠ざけることになると思っていた。
けれど暁月の中には、何かを掛け違えたような違和感があった。
違和感をひきずるように迎えた土曜日、暁月は駅前で春海と待ち合わせをしていた。
二人で志望校の参考書を見に行く予定で、ついでに駅ビルで何か食べてこようと約束していた。
……けれどこれから殺人が起きるなんて、春海にどう言っていいかわからない。
「暁月、だっけ」
駅前のベンチに座っていた暁月に、ふいに声が掛けられる。
振り向けば、隣に夾助が座っていた。
先生に注意されても直さない茶髪、右耳に目立つピアス。夾助は派手なグループのリーダー的存在で、友だちも少ない暁月とは今まで話したこともなかった。
正直、暁月は夾助が苦手だった。粗野で不真面目、悪い連中とつるんでいる噂もあって、関わり合いになりたくなかった。
「ありがとな」
そんな夾助から唐突に礼を言われて、暁月は驚いて彼を見返した。
「え……?」
「流々のこと。相談に乗ってくれようとしたって聞いた。あいつは一人で抱えるタイプだから、気にかけてもらえてうれしかったみたいだ」
夾助は優しい表情で流々のことを話した。それが意外で暁月が何も言えないでいると、夾助は横目で暁月を見て苦笑する。
「俺は慰め方っていうと、ラブホテルに引っ張り込むくらいしか思いつかなかった。あいつはそうしても、きっと大人しくついて来ちまうんだろうけど」
夾助はふいに夢見るような目で虚空をみつめて言った。
「カウンセリングを受けてよかった。……高宮先生は、もっと他の方法を教えてくれた」
瞬間、暁月の背筋に冷たいものが走った。
本来流々が受けるはずだったカウンセリングを暁月が阻んだために、夾助が受けることになった。
……それは本当に、良い未来を連れてくるだろうか?
暁月は思わず非難めいた声色で夾助に言う。
「……高宮先生からは、距離を置いた方がいいよ」
夾助は案外素直にうなずいて返す。
「そうだな。来たばかりの先生だもんな。……でも俺の心を的確に暴いてくれた」
夾助はどこか宗教的な崇拝のような目で、どこか遠いところを見てつぶやく。
ふいに夾助は冬の外気に息を吐き出して、駅の改札口を見上げた。
「……俺、さ。いつもここでこうやって流々を待ってるんだ」
夾助は独り言のように、恋人のことを口にした。
「俺はいつだって真っ先に抱きしめようって、待ち構えてるのに。あいつはいつも最後にしか出てこない。俺はそれが心配で心配で……狂うくらい、ずっと待ち続けてる」
夾助は両手を組んで、祈るように愛の言葉を告げた。
「愛してるんだ。あいつが他の奴と話してるだけでずっと苦しかった。……だから」
……一瞬、夾助の瞳に暗黒が宿る。
暁月がそれに息を呑むより前に、夾助は顔を上げて明るく声を上げた。
「流々! こっちだ!」
駅前の人混みで待ちわびた一人をみつけて、夾助はうれしそうに駆け寄っていく。
夾助が腕を広げて流々を抱きしめるのを見ながら、暁月は何か不可思議な渦に取り込まれて行くのを感じていた。