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7 先生から明かされる

 高宮はいつか、人の心の澱と言った。

 暁月が春海の中のそれに気づいたのは、暁月の生命活動が糸のように細った後のことだった。

 春海の両親は、教会に附属する病棟を経営している。……治る見込みのない、多くが植物人間となった患者専用の病棟だ。

 暁月はその病棟のベッドに横になったまま、ベッドの脇に立つ父と春海をぼんやりと見ていた。

 春海は暁月の父に、よく出来た友人の顔で言う。

「お父さん。暁月くんのことは心配要りません。ずっと……僕がここで面倒を見ますよ」

 暁月に着けられた人工呼吸器の音だけが病室に響いていた。

 暁月はもう正常な思考もできないほど力を失っていたが……微かに、父に立ち去ってほしくないと願った。

 劇薬を飲ませて暁月をこの体にした、春海の罪を暴いてほしい。聖者のような仮面をつけた悪魔を刺して、暁月の無念を晴らしてほしい。

 けれど暁月がそう願おうにも、暁月にはもう物を言う能力はない。

 父は何も言わずに立ち去っていった。父の現実はもうずっと前から夢の中で、過酷な現実を暴く気力はないとわかっていた。

 父が立ち去って二人きりになった後、春海はそっと暁月の手を取った。

「これで僕だけのものだ」

 春海は幸せそうに笑うと、暁月の手に頬を寄せて言う。

「好きな人は独り占めしたいだろう? 夾助くんも僕と同じ人種だと思ったのだけど、彼はさっさと好きな人の後を追ってしまった。愛が足らなかったんだね、かわいそうに」

 違う。お前の愛が異常なんだ。暁月はわずかに残る嫌悪感で思ったが、悪魔に正常な倫理を説いても意味がないのだろう。

 春海は息をついて、どこか夢見るように言う。

「高宮先生のカウンセリング、受けてみたかったな。あの人は聖者に似て綺麗だものね。もし僕が迷える羊のままだったら……先生に助けを求めたのかな」

 けれど前の時間では、春海はこんな異常者じゃなかった。春海が歪んだのは……暁月が自らの運命を春海に託してしまったから。

「まあいいか。愛する人はもう一生、僕の手の内に。おやすみ、暁月……いい夢を」

 春海は暁月の頬にキスをすると、ざわつくような笑い方をして去っていった。

 暁月は自分でまぶたを閉じることもできないまま、体の勝手な生理現象で涙を流していた。

 悔しかった。自分にもう少し勇気があったのなら。殺人の連鎖を恐れて、助けを求めてはいけない悪魔にすがってしまわなければ。

 ……心に澱があろうと、自分だったら最後まで醜く生きてやったのに。

「困りましたね。何度時を流しても、あなたの澱が暴けない」

 ふいにまぶたをそっと閉じられた。暗闇に沈んだ暁月の世界に、柔らかく澄んだ声が響く。

「私はその時間で一番の悪を……あなたの澱を洗うためにやって来たのに。あなたの澱は今も心の深くに潜んで、触らせてくれないなんて」

 それは高宮の声だった。まぶしい闇の中に包まれるようにして、彼はそこにひっそりと存在していた。

「……僕を殺すためにやって来たと言うんですか」

 暁月からは、声ではなく響きのような音が放たれた。高宮はそれに、優雅にうなずいて返す気配があった。

「一度目の時間でも、二度目の時間でも、あなたは最期に私に殺されるはずだった」

「先生にはできたでしょう。今だってできるはず」

 暁月がいぶかしげに言い返すと、高宮はふと微笑んだ。

「そう。とても愚かなことです。……恋のカウンセリングを受け続けた私が、まさか恋をするとはね」

 暁月はぐっと息を呑んだ。体温がかぁっと熱くなった気がして、つっかえながらつぶやく。

「ば、馬鹿馬鹿しい。殺人の道具の持ち主の、異常者の先生が」

 高宮はくすくすと楽しそうに笑った。こんな闇の中でなければ、子どもがじゃれあうような笑い方だった。

「私はあなたに興味がある。ひどい病のように、焦がれている」

 見えないはずなのに、暁月はそれが高宮の美しい所作だとわかった。

 彼は手を差し伸べて、自分の右手首の腕時計に触れた。

「……さあ、私のところまで。落ちてきてください」

 リーンと、いつかの置時計のような音が響いた。同時にぐにゃりと辺りが歪む。

 暁月は全身が深い海に落ちるように、時の中に投げ出された。

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