夜明けの気配が、わずかにカーテンの隙間から忍び込んでくる頃、俺はついに限界を迎えていた。
「はは……ついに三日連続徹夜達成か。ラノベ作家としてこれ以上ない勲章だな、うん。……いや、普通に死ぬぞコレ!」
机の上には、空になったエナジードリンクの缶十本以上が小さなピラミッドを形成している。まるで俺の命を吸い取った後の抜け殻のようだ。
モニター画面には赤い点滅字幕で「第17回異世界ラノベ大賞・応募締切:あと2時間」が、まるで悪魔の誘いのように踊っていた。
俺、茶川龍介(42歳)。売れないラノベ作家の悲哀と誇りを背負い、朦朧とする意識の中で必死に原稿を仕上げた。指先は痺れ、視界は霞むが、それでもキーボードを叩く手は止められなかった。
「……よし、これで限界だ。いや、むしろこれ以上の文章は俺の脳内から出てこない! もう、ひねり出すものも残ってない!」
目を閉じた瞬間、部屋の空気がスッと変わった。それまで張り詰めていた重い空気が一変し、まるでどこかの窓が開いたかのように、澄んだ、しかし奇妙な空気が部屋を満たしたのだ。
ふわり。
同時に、背筋がゾクリと粟立つような、不思議な浮遊感が俺の全身を包み込む。
「お疲れ様でした、龍介さん。いや、リュウとお呼びすべきかのう?」
耳元で響いたのは、澄んだ老人声。まるで脳に直接語りかけられているかのような、響き渡る声に慌てて目を開けると、そこには銀髪の長髪を背中に垂らし、虹色に輝く羽根をたなびかせた存在が、天井からゆっくりと降りてきているではないか。ローブは淡い蒼色で、裾がゆらゆらと宙を撫でている。その顔は穏やかで、しかしどこか人間離れした威厳をたたえていた。
「えっ、え? ……夢? それとも幻覚? や、ヤバい、エナドリって違法だっけ!? ついに幻覚を見るまでになったのか、俺の体……!」
あまりの非現実的な光景に、俺の頭は完全にキャパオーバーだ。
「違わぬ。これは夢ではない、ラノベの神じゃ。三徹の執念を持つ者にのみ現れるという伝説の存在……見事じゃ!」
神様はにこやかに、しかし確信に満ちた声でそう告げる。
「マ、マジでラノベ神!? 三日徹夜で神様登場とか、そんな設定公式じゃないでしょ!? 俺の知ってるラノベ大賞の応募要項には、そんなボーナスステージは書いてなかったぞ!?」
ぽかんと口を開ける俺に、神様は微笑んだかと思うと、その手に持っていた杖を軽く一振りした。すると、部屋全体が淡い光に包まれ、まるで時間が止まったかのような錯覚に陥る。
「ほれ、お主の努力無にせぬぞ。転移のチャンスじゃ。望む世界を申せ」
「き、来たコレ! 異世界転移!? ま、まさか本当に転移のチャンスが来るとは……! これは、あの時書いた企画書が報われたってことか!?」
心の中でガッツポーズ。いや、実際に両腕を突き上げてガッツポーズをキメていたかもしれない。俺は畳の上に正座し、両手を組んだ。まるで願い事をする子供のように、真剣な顔で神様を見つめる。
「神様! どうか、どうかファンタジーな世界に転移させてください! 魔法が使えて、ドラゴンもいて、スローライフで、ハーレムもあって……とにかく全部入りの異世界に!!! よくあるテンプレ異世界でも構いません!むしろ、それがいいんです!」
「お主、欲張りじゃな……ふむ、よかろう。家は用意しといた。ついでに16歳に若返らせてやろう。ほいっ」
神様が指をぱちん、と鳴らす。その刹那、部屋の壁がぐるぐると渦を巻き、視界全体が万華鏡のようにねじれた。世界が大きく揺れ、まるでジェットコースターに乗っているかのような浮遊感と吐き気に襲われる。
「……あ、ちょ、ちょっと待って! スローライフとハーレム、設定が噛み合ってなくない!? スローライフって穏やかな日々を送るんじゃなかったの!? ハーレムって……!?」
気づいたときには、もう。視界の歪みが収まり、目の前に広がっていたのは、見慣れた部屋の風景ではなく、青々とした森だった。柔らかな木漏れ日が風に揺れる葉の隙間から零れ落ち、薪がくすぶるログハウスの前に、俺はパンツ一丁で立ち尽くしていた。
「……なんで服がないの!? ていうか、パンツ一丁!? 神様、ちょっと雑すぎるやろ! いや、雑すぎどころじゃない! こんなのラノベじゃありえないだろ!? せめて転移特典で服くらい……!」
辺りを見回すと、背後で木の隙間に囲まれた小さな小川がきらきら光り、鳥のさえずりが心地よい。どこかで小動物の足音が枝をかすめる。草の匂い、湿った土の匂い、五感で感じる異世界感は満点だが、俺の全身を駆け抜けたのはただ一つの感情。
(まさか本当に転移するとはな。今までの作品で描いてきた世界が目の前にあるとは……。しかし、このパンツ一丁は……神様、やっぱり雑すぎないか?)
だが、この春めいた朝こそ、俺の異世界スローライフ(ただし執筆付き、そしてパンツ一丁スタート)が幕を開けた瞬間だった。
澄んだ空気に包まれて、目を覚ますと、頭上には平らな木の梁、耳には微かな木の軋む音。深呼吸すると、鼻腔の奥をくすぐるのは、薪の燻る匂いと、ひんやりとした朝露が染み込んだ青草の香り。昨夜の悪夢のようなパンツ一丁生活は、嘘のように快適な寝床で幕を閉じていた。
「……うん。悪くない。むしろ、最高だ」
昨夜パンツ一丁で放り出されたときはさすがに「神様、雑すぎるだろ!」とツッコミを入れたものの、いつの間にか俺サイズの服がちゃんと用意されていた。ログハウスの簡素な机の上には、手紙が添えられている。
「若返らせた時に服を着せ替えるの忘れちゃった。てへぺろ」
……だそうだ。
「なにがてへぺろだよ、しばらく裸で過ごすのかと思ったじゃないか! まったく、神様ってやつは……」
木綿の白いシャツは朝陽に透けて柔らかく輝き、動きやすいダークグリーンのズボンは足さばきも快適。腰には革製のポーチがぶら下がり、中には羽根ペンとインク瓶、そして小さなノートが収まっている。どうやらこれが、俺の異世界での武器であり、防具であり、そして何よりも大切な「チートアイテム」らしい。
小さな丸窓から差し込む光を背に、俺はログハウスの重い扉をゆっくり押し開けた。軋む木の香りとともに広がるのは、光と影が織りなす緑の世界。風に揺れる葉のざわめき、小川を渡るせせらぎ、遠くで見慣れない鳥がさえずる声。町も村も人影もないが、それがまた心地いい。まるで、俺が夢にまで見た理想の「スローライフ」が、目の前にあるかのような錯覚に陥る。
「……完全に“スローライフ系”だよな? いきなり魔王討伐に駆り出されるよりぜんぜんマシだ。これでハーレムはどこいったって話だが、まあ、それは追々……」
俺は腰のポーチからノートを取り出し、羽根ペンをインクに浸す。そう、俺、茶川龍介のチート能力は、“書いたことがそのまま現実になる”という無慈悲すぎるもの。ラノベ作家として培った妄想力と表現力が、この世界でどこまで通用するのか、少しばかりの期待と、ほんの少しの不安が入り混じる。
「さて……これからどうしよっか。まずは情報収集か?いや、食料の確保が最優先だな。このチート能力なら、すぐに何か作れるはずだ。手軽に、しかも栄養価の高いもの……そうだ、ジャガイモは日持ちするし、栽培しやすいって聞くから、試してみるか。これで自給自足の異世界スローライフが始まるわけだ。なんてラノベ的!」
俺はノートに丁寧にこう書いた。まるで祈りを捧げるかのように、一文字一文字に魂を込めて。
《ログハウスの隣に小さな畑があり、そこに丸々としたジャガイモの種芋が植えられている。畑はしっかりと耕され、水路から水が引かれ、土はふかふかになって乾いている》
そして三行後、土を掘り返す素手の感触が腕に伝わった。目の前には、本当にそこにあったかのように、畑が広がっている。信じられない光景に、思わず目を見開いた。
「たった三行、書き終えただけなのに、まさか本当に土が……!? 嘘だろ、本当にできたのか!?」
その驚きも冷めやらぬうちに、視線の先で若葉はみるみるうちにスクスクと伸び、数時間後には土の盛り上がりから、ゴロゴロと立派なジャガイモが顔をのぞかせた。皮は薄くツヤツヤ、引き抜くとほのかにバターの甘い香りが鼻をくすぐる。まるで夢でも見ているかのような、信じられない光景だ。
「チートってレベルじゃねぇぞこれ! もはや神の所業だろ! てか、もう収穫できるって、成長速度もチートじゃん!」
喜びに浸る隙もなく、全身を襲う強烈な眠気。まるで毒霧にでもやられたかのように、目まいとともに地面へドサリと尻餅をついた。意識が急速に遠のいていく。
これが代償か。この規格外のチート能力には、それなりのリスクが伴う、と。
意識が遠のきながらも、俺はかすかに思った。
「書く→成る→眠る。これが俺の新しい日常か……。まるでゲームのクールタイムだな」
それからというもの、俺の生活は「朝起きて書く→畑に出て収穫→書いた内容が現実化→猛烈な眠気で昏睡→起きたらまた書く」という、一見シュールな農業作家ライフに突入した。最初は戸惑ったが、慣れてしまえばこれほど効率的な生活はない。
気づけば畑にはジャガイモだけでなく、真っ赤なトマト、丸々と実ったキャベツ、鮮やかなオレンジのにんじん、さらにはどこからともなく現れたスイカまで、生命力豊かに枝を伸ばしていた。まさに「実るほどチートに感謝」というやつだ。俺の食卓は、毎日が収穫祭である。
その夜も、俺はテラスの手すりに腰掛け、用意された薪で焚き火を起こした。パチパチと燃える音を聞きながら、ホクホクに蒸したジャガイモを割って、能力で生み出したチートバターをたっぷり乗せる。湯気が立ち上り、芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
「はふっ……う、うまい……!! なんだこれ、前世で食べてたジャガイモとは別物じゃん! チート能力で作った食材、恐るべし……!」
甘く濃厚なバターがジャガイモの熱でとろけ、口いっぱいに広がる幸福感。バトルも魔法もないけれど、これ以上ない至福の瞬間だった。このまま穏やかなスローライフが続くのだろう、と俺は漠然と思っていた。
そう思った矢先、夜の静寂を引き裂くように、
「きゃああああああああっ!!」
森の奥から、女の悲鳴がこだました。その声は、恐怖と絶望に満ちていて、俺の心臓を鷲掴みにする。
「……やっぱり来たか、異世界フラグ。スローライフを謳歌している主人公の元に、ヒロインが助けを求めて現れる……これぞラノベの王道だろ!」
俺はペンを握り直し、胸の高鳴りを感じながら立ち上がった。まるで、この悲鳴が俺の物語の新たな章を開く合図であるかのように。このスローライフ、まだまだ波乱が続きそうだ。