「おどりゃ! ようわしを監禁してくりゃあがったな!」
ヴィスクムは躊躇なくシェリーズを殺しに動いた。髪の毛を木の枝や街灯などに絡め、振り子の要領で反動を用い、高速で移動する。瞬く間に両者の距離は縮まっていく。
「ジンとどこぞで遊ぶつもりだったんじゃろうが、ここで会ったが百年目! 性欲の強さが命取りよ! 死にさらせい!」
ヴィスクムの髪の毛がシェリーズ目掛けて振るわれる。ただの毛髪ではない。魔法で強度を増しているのだ。
幸い、シェリーズはこれを避けた。
狙いを外した毛髪は、石で舗装された道を粉砕。破片を飛び散らせる。人を殺すくらいわけないであろう。
窮地。シェリーズは魔法を使えない。弓は得意だが、今は持ち合わせていないようだし、仮に持っていたとしても、準備するだけの余裕がない。
しかし――
攻撃を幾度か繰り返すうち、ヴィスクムが不審がり始めた。
――なんで一発も当たらんのじゃ……?
遊んでいるわけではない。本気で殺すつもりの攻撃だけをしていた。それがすべて回避されている。
「ははあ、透明になっとるジンが手引きしよんじゃな」
その通りだった。
ジンは服を引っ張ったり体を突き飛ばすなどして、ヴィスクムのしなる毛から王子を守っていた。ヴィスクムには聞こえないように小声で、
「さ、こちらへ。そこでお止まりください。今度は走って。怖いですか? 大丈夫。俺を信じなさい」
ジンは王子に階段をのぼらせ、壁を這わせ、屋根の上からバルコニーへ飛び移らせる。大分もたついたため、ヴィスクムを振りきることはできなかった。それどころか、
「今度こそ!」
凄んだヴィスクムの毛が王子を直撃した。
王子は壁に叩きつけられる。
鈍い音が響く。
「何の音だい!?」
ウィルダがバスローブの紐を締めながら、バルコニーに現れた。背後から微かに、赤ちゃんの泣き声が聞こえる。
ヴィスクムは朗らかに、
「よう、ウィルダ! ちょうどお前の部屋じゃったんかい」
「いや……あんた、誰だい……あたしゃあんたなんて知らないよ」
「心配すんな! たった今、俺がシェリーズを殺したったんじゃい。ほれ、見てみろ」
「え? よりによって、こんなところで……」
「今すぐ王も殺しちまえ。これで、てめぇのガキが王になるぜ! カカカッ!」
すると、赤ちゃんが泣き止み、代わりに低い男の声が。
「な……どういうことじゃ、ウィルダ」
どうすべきかウィルダが迷っていると、倒れた王子が呻いた。
「……ママ……」
それはとても小さな声だった。
しかしウィルダは決して聞き逃さなかった。また、聞き間違えもしなかった。飛び付くように王子へ近づき、頬かむりを外した。
「ああ!」
ウィルダが泣き叫ぶように、
「あんた、どうしてうちの子を!」
「あん?」
首を捻るヴィスクムだが、やがて顔面が蒼白になる。己の犯した過ちにようやく気づいたのだ。掠れ声で、
「まさか、俺が打ったのはシェリーズじゃなくて……プラナス……」
と同時に、ヴィスクムの胸へ一本の矢が刺さる。前のめりに倒れ込んだため、後方に立つ射手の顔を見ることはなかった。
木陰にて弓を構えているのは、他ならぬシェリーズ。
見る見るうちに、血の水溜まりが出来上がる。意識が薄れ、体の痙攣も治まり、命の灯火が消える寸前のこと。大きくなる騒ぎに混じり、かつて同胞だった男の声が耳に入った。
「お前は終わりだ」
* *
王宮に殺し屋が乗り込み、王子に重症を負わせたなど、決して外へ漏らしてはならない醜聞だ。ゆえに、箝口令が敷かれた上、すべては内々に処理されることになった。
ヴィスクムが死んだのは不幸中の幸いだったか。
「よく仕留めてくれた。さすがわしの跡継ぎじゃ。おぬしのおかげでわしまで殺されずに済んだわい」
シェリーズは国王から賞賛された。
ヴィスクムを王宮に持ち込んだのは当のシェリーズ本人なのだが、これも、
「死人に口無し。王子は疑われることすらありませぬ」
とジンが囁いた通りだ。
一方、プラナスは苦しい。知らなかったとは言え、母親ウィルダがヤドリギ一族の出身だったのだ。念のため自室に軟禁されることとなったが、そのような処置は必要なかったかもしれない。ヴィスクムの攻撃を受けたことにより、下半身不随になってしまったのだから。
「一生、寝たきりですな」
典医は匙を投げてしまった。
「ああ、兄上。なんとお
見舞いの許可を得たシェリーズは、兄を直視するに堪えない。
いや、一見すると、プラナスはいつも通りなのだが、ベッドに座ったまま動かない。たまに首を動かして窓の外を眺める以外、じっと手を見つめている。自分一人では立ち上がることもできないのだ。無邪気ささえ失った顔つきで、まず第一声、
「シェリーズ。母上はどうなったの?」
「……逮捕されました」
「そう……」
さすがに予想していたのか、さして驚いた様子はない。
気まずい沈黙。
居ても立ってもいられず、考えもなく見舞いに来たものの、いざとなると、何が兄の助けになるのかさっぱり見当もつかない。
――私に何ができる?
思いきって本人に直接尋ねてみた。
「兄上、ほしいものはおありですか?」
「ほしいもの……?」
「何なりとご用意しますよ」
「何でも?」
「はい」
「本当に?」
「はい、はい」
思案するまでもない。プラナスがこのような目に遭ったのも、どうしてもジンを抱きたいという下心ゆえなのだ。あの夜、プラナスは屋根から転がり落ちそうになったり、見張りの者に泥棒と間違われて追われたり、たくさん大変な思いをした。その挙げ句に、身体の自由を失った。我ながら、
――ぼくって、愚か。
だと思う。思うが、しかし、止めようと思って止められる劣情ではない。
「ぼくね――」
言いかけた時だった。
「兄上がお望みなら、王位を差し上げましょう!」
シェリーズがとんでもないことを言い出した。
付いて来ていたジンが王子を小突くのは、
「それはなりませぬよ」
と無言で伝えているわけだ。
だがシェリーズはそれを無視して、父は自分が説得してみせるだの、体が動かなくても頭脳が明晰であれば統治は可能だの、捲し立てるように喋った。
これに冷静でいられないのはジン。なぜなら、彼がこの一件でヴィスクムとウィルダのみならずプラナスまで同時に潰したのは、
――シェリーズ王子、あなたが確実に即位するための布石なのですぞ。
だから、本当なら死なせるつもりだったプラナスが生きていることが残念でならない。無意識のうち、ジンはプラナスに軽侮の視線を送っていた。
馬鹿なプラナスも、ここに至り、ようやくすべてを理解した。
――ぼくは嵌められたんだ。
まとわりつくような臭いが部屋に立ち込める。
同時に湿度が上昇したようだ。
「あ……うう」
プラナスが失禁した。