王宮生活における窮屈さが我慢の限界に達した時、行啓の許しが王より出される。遠方へは行かせてもらえないが、城下であれば、叶えられない希望はない。しかし、シェリーズは、
「いま流行りの芝居を観るだけでいいんだ」
と殊勝なことを言う。
ジンは恐る恐る、
「もう少し派手に遊ばれては如何ですか? 正直に申しまして、庶民の観る芝居など、王子には退屈ではないかと」
「いいんだよ、ジン。話題作だから、気になるんだ。それに、民の関心を把握するのは、王子として大切な務めなはずだ」
かくして、シェリーズが護衛を引き連れ、城下を出歩くこととなった。
こうした場合、お忍びではなく、堂々としているわけだが、すると当然、町の人々が放っておかない。王子に頭を下げたり、万歳したり、大騒ぎをする。シェリーズは、美貌と知性に恵まれた心優しき世継ぎとして、人気が高いのだ。
「ごきげんよう」
王子に手を振られると、若い女性から黄色い悲鳴があがる。シェリーズ一行が舞台の座席に着いても、そうした騒動は収まらず、
「このままだと、役者の方々に迷惑がかかるんじゃないか……」
不安がったが、ジンは平気な顔で、
「大丈夫ですよ。何の心配も要りませぬ」
「どうして?」
「舞台をご覧になれば、おわかりかと……ほら、幕が上がりました」
実際、ジンの言った通りだった。
芝居が始まった途端、観客の関心の的は舞台の上に絞られた。いつの間にか、誰もが息をつめ、身を乗り出し、主役の男に熱視線を送っている。
看板役者、シスネヴラ。
限界まで脂肪を削ぎ落とした肉体。影のある表情。皮肉な笑い方は、老若男女を問わず、うっとりさせる。貴族に扮したシスネヴラは、庶民役の女を抱き締め、
「身分は壁だが、恋は翼だ。さあ、私と共に壁を越えよう」
身分の違いをテーマにした恋愛作品であった。
舞台が終わっても、シェリーズの心は静まることを知らないようで、しきりにシスネヴラを褒めちぎった。
「まさに我が王国の誇りだ。国王陛下にも是非、観劇なさるよう進言せねば」
ジンは黙っていた。まさか告げるわけにいかなかったのだ。
「あのシスネヴラという役者、ヤドリギですよ」
などとは、決して。
* *
「庶民から、恋文が来てないか?」
シェリーズは毎日、一時間ごとに、同じ質問を護衛に投げ掛ける。確かにシェリーズはモテるが、
「届いたとしても、王子にお渡しするわけがございませぬ」
ジンはきっぱりと断言する。
「どうして?」
「王子に恋文を出す輩など、身分の差をわきまえない愚か者ですぞ。相手にするだけ無駄ではありませぬか」
「ジン、わかってないな。身分は壁だが、恋は翼だ」
「はいはい」
あの日以来、シェリーズはすっかり身分差恋愛劇とシスネヴラにハマってしまった。飽きることなく芝居の真似事。しばしば護衛は相手役をさせられ、うんざりしている。
ドクダミは耳にタコができるほど聞かされた台詞に苛立ち、
「まるで動物園ですねえ。ぎゃあぎゃあ賑やかで」
嫌味を垂れるが、
「私の人生には、これしか楽しみがないんだ」
とシェリーズに泣きつかれると、さすがのドクダミも弱い。
シェリーズは刺激をほしがっていた。
「だって、現実には貴族も王族もつまらないもんだよ」
なぜなら庶民との恋など許されるはずもないし、そもそも、する機会もない。日々の務めをこなすだけの日々なのだ。
シェリーズは、ふと思い付き、
「ジン、きみの身分は士族だが、恋愛の方はどうなんだ?」
「どう……と申されますと?」
「あの芝居のような恋はするのか?」
「まさか」
思わずジンは噴き出してしまった。
「身分を超えた恋など、ございませぬよ」
「ふうん。じゃあ、友達にはなれないかな」
「それも難しいでしょう」
「じゃあ、ジンの恋人の条件は?」
「何の話ですか」
呆れたふりをしつつ、内心、ジンはシスネヴラの顔を思い浮かべていた。
観劇に行った、あの日……。
「どうしても」
と、シェリーズが珍しく駄々をこねたので、楽屋へ訪問することになった。情熱的に感動を伝えるシェリーズに対し、シスネヴラは例の皮肉な笑みを浮かべ、深々とお辞儀をした。
護衛が口をきいていい場面ではない。ジンは無言無表情で立っていたが、心は歓喜に包まれていた。
――王宮に潜入した日、もう二度とそなたに会えぬと諦めたゆえ。
ジンとシスネヴラは交際関係にあった。
二人は幼馴染み。ヤドリギ一族という出自、同性を愛するというジェンダー。こうした秘密を共有する関係が、恋に発展するのは必然だった。彼らヤドリギは、その立場上、一族以外の者と深い交流を築きづらく、狭いコミュニティの中で内向的な思考に陥りやすい。
告白はなかった。愛を囁くことも囁かれることもなかった。無言で抱き合い、無言で別々の家に帰るだけの関係。
「また来るよ、シスネヴラくん」
「お待ちしております、王子殿下……」
シェリーズ一行が楽屋を引き上げる際……
ジンとシスネヴラの視線が重なった。ほんの一瞬の出来事。彼ら自身の他には、誰も気づかなかった。
ただそれだけのことが、まるで、
――抱き締められるのと同じくらい嬉しい。
と感じられた。
翻って、シェリーズは恋に恋しているに過ぎない。
「王子なら引く手あまたでしょう。わざわざ手紙を待たずとも」
ジンは軽くあしらおうとした。
「いやいや……」
シェリーズは手を振り、
「私から迫ったところで……上手くいくだろうよ。すべて。すんなりと」
「だったら……」
「喜びが無いじゃないか。色狂いの王子。かわいそうな庶民。王子である私に逆らえず、庶民は仕方なく身を任せる……。そういう構図になるのが目に見えてる」
「では、意趣返しさせていただきますが……」
「うん?」
「王子の好みの女性は如何な方なのですか? 身分差のある恋に憧れてらっしゃるのであれば、やはり元気な町娘でしょうか?」
「ふむ……私は……」
言いかけた時だった。
鐘の音――
王宮内の鐘の役割は時刻の伝達ではない。
例えば、王族の訃報、敵襲、台風の襲来などを伝えるのだが、今回の場合は、
「王族の召集か。よほどのことが起こったらしい」
シェリーズの予感は当たっていた。
この後、彼は国王より、
「ヤドリギが見つかったわえ」
と報告を受けた。
が、それ自体はよくあることであり、王族に臨時召集をかけるほどのことではない。本当に重大なのは、ヤドリギと発覚した男が、
「近頃話題の役者……シスネヴラなのじゃ」