藤原景子はベッドから飛び起きた。
「本当?!」
「うん」
「じゃあ知絵お姉さんになんで今まで教えてくれなかったの?」
「決まったばかりで、まだ彼女には話してない」
藤原景子は興奮してたまらない。
「パパ、知絵お姉さんには内緒にして!帰国したらサプライズしようよ!」
「いいよ」
「パパ最高!大好き!」
電話を切っても、藤原景子はまだベッドの上で歌ったり跳ねたりして喜んでいた。
興奮が少し収まった時、彼女はふと藤原陽菜のことを思い出した。
この数日、ママから電話がなかったので、彼女の気分はずっと上々だった。
実は電話を避けるため、彼女は数日前からわざと早く家を出たり、帰宅後はスマホを遠くに置いたり電源を切ったりしていた。
二日後、ママに怒られるのが心配でやめたが。
意外なことに、ママは本当に数日間連絡してこなかった。
最初は電話を避けているのがバレたのかと思った。
でも考えてみれば、これまでの経験では、ママは彼女の間違いに気づいたらすぐに修正を求めるはずで、わざと電話をしないなんてことはない。
だってママにとって景子が一番大事で、ママは景子を誰よりも愛しているんだから、本当に怒って連絡を絶つなんてありえない!
そう思うと、藤原景子の胸に一抹の寂しさが湧いた。
ここ数日で初めてママを思い出した瞬間だった。
彼女は思わず藤原陽菜の番号をダイヤルした。
しかし発信ボタンを押した瞬間、彼女はハッと気づいた。
帰国したらすぐに知絵お姉さんには会えるけど、ママのことだならきっとあの手この手で会わせまいとするだろう。
こちらにいる時みたいに、会いたい時に自由に会えなくなる。
そう考えると、藤原景子の気分は一気に沈んだ。
日本は真夜中だった。
藤原陽菜は寝ていたが、藤原景子からの着信で目を覚ました。
着信表示を確認し、出ようとした瞬間、相手は切ってしまった。
藤原悠真に渡した離婚届で親権は放棄したものの、藤原景子はやはり自分の娘であり、責任はある。
娘に何かあったのかと心配し、すぐに折り返し電話をかけた。
藤原景子は着信を見て、ふんっと顔を背け出ようとしなかった。
藤原陽菜はさらに心配になり、すぐに藤原家本邸の固定電話にかけた。
執事の田中さんがすぐに出て、事情を聞くと「景子様はおそらく大丈夫でしょう。昨夜遅くまで起きていて今朝は寝坊なさったようです。私が先ほど上がった時はまだお寝みでした。すぐに確認して折り返します」と答えた。
それを聞いて藤原陽菜は安心した。
「お願いします」
田中さんが二階に上がると、藤原景子はすでに洗面所で歯を磨いていた。
事情を説明すると、藤原景子はうつむいたまま口をゆすぎ「間違って押しちゃった」とぼそっと答えた。
田中さんは特に疑わず、歯磨き中の彼女を見て階下に降り、藤原陽菜に報告した。
藤原景子は田中さんの背中を見て、ようやく少し気分が良くなった。
藤原陽菜は田中さんからの返事を聞き、安心した。
しかし起こされた後はなかなか寝付けず、翌日出勤時は少し疲れていた。
一方、藤原悠真がベッド脇に投げ捨てた離婚届の入った封筒は、あの夜以来すっかり忘れ去られていた。
帰国当日、藤原悠真は最後の書類を鞄に収め、確認を終えて階下に降りた。
「行くぞ」
リムジンは藤原家本邸を離れ、空港へ向かった。
......
藤原の親子の帰国を、藤原陽菜は知らなかった。
誰も教えてくれなかったのだ。
藤原家本邸を出てから、すでに三週間が経っていた。
この三週間で、彼女は次第に一人暮らしの静けさと自由を楽しむようになっていた。
週末、彼女は少し遅く起きた。
身支度を済ませカーテンを開けると、陽射しが心地よかった。
背伸びをし、窓辺の観葉植物に水をやり、簡単な朝食を作ろうとした時、インターホンが鳴った。
向かいの住人、佐藤さんだった。
「水原さん、お邪魔じゃないですか?」藤原陽菜は穏やかに答えた。
「いいえ、もう起きてますよ」
「それはよかった」佐藤さんはにこやかに言った。
「家で作った和菓子なんですが、よかったらどうぞ」
「ありがとうございます、ご丁寧に」
「いえいえ!この前うちの幸子ちゃんを助けてくださった時だって、あの野良犬にどんなひどい目に遭わされたか。ずっとお礼をと思ってたんですが、夫婦共働きでなかなか時間が取れず、本当に申し訳なくて...」
「大したことではありませんよ、佐藤さん気にされすぎです」
少し雑談を交わした後、佐藤さんは帰っていった。
藤原陽菜は朝食をとりながら、最近注目しているAIのアルゴリズムについて調べていた。
午後、東京大学の創立145周年記念学園祭のニュースが通知された。
藤原陽菜ははっとし、日付を確認して母校の記念日であることを思い出した。
ニュースを開くと、トレンドには#東大145周年学園祭 のタグがいくつも並んでいた。
今回の学園祭はかつてない盛り上がりを見せていた。
東京大学が日本を代表する学府であるだけでなく、145周年記念ということもあり、招待された著名な卒業生は各界のトップランナーばかりだった。
藤原陽菜はちらりと画面を見た。カメラがいくつか見覚えのある顔を映し出した時、彼女の手は微かに震えた。学生時代の記憶が一気によみがえってきた。
心が突然乱れた。
もし大学卒業後すぐに結婚していなければ、もしかしたら今日の優秀卒業生の席に、自分の名前もあったかもしれない?
彼女はノートパソコンを閉じ、しばらく逡巡した後、車で東京大学に向かった。
午後も遅い時間だったので、主要なゲストの多くは既に退場していたが、キャンパス内はまだ人で賑わっていた。
藤原陽菜が一人で歩き、懐かしい実験棟の前を通りかかった時、見覚えのある声が彼女を呼び止めた。
「陽菜」
20分後、東大近くの清源茶屋で。
榊原翔太は藤原陽菜にお茶を注いだ。
「最近どう」
藤原陽菜は湯呑みを両手で包み、俯き加減に微笑んだ。
「元気よ。ただ...離婚することにしたの」
榊原翔太はこの答えを予想しておらず、少し間を置いた。
「...そうか」
「大丈夫」
「これからどうするつもり?会社に戻る考えは」
「それも考えてるんだけど...」
榊原翔太は彼女のためらいの理由を知らないが、真剣な表情で言った。
「陽菜、会社には君が必要だ。会社の成立には君のおかげもある。戻ってきて事業をリードしてほしい」
「私...」榊原翔太の真剣な眼差しに、藤原陽菜は言いにくい事情を抱えていた。
戻りたくないわけではない。
だがAI分野の進化は目覚ましく、彼女は既に6年も核心から離れている。
今から戻ったとしても、時代に追いつくのは難しく、ましてや当時のようにチームを率いて業界の最先端を走るなど、到底無理な話だった。