藤原陽菜と榊原翔太がこの数年顔を合わせたことは数回しかなかった。
それでも榊原翔太は鋭く感じ取っていた。
今の彼女には、かつての鋭さも自信もないことを。
「劣等感」という言葉が、記憶の中の藤原陽菜と結びつくとは、彼は夢にも思わなかった。
藤原陽菜と藤原悠真の結婚生活について、榊原翔太が知っていることは限られていた。
だが、まったく知らないわけでもない。
彼は漠然とした推測を抱きながらも、あえて触れず、ただ真剣に言った。
「一時的な遅れなんて、大したことない。君の能力と才能は、普通の天才たちとは比べものにならない。陽菜、君がこの道に戻りたいなら、今からでも十分間に合う」
「忘れるな、君は畑木先生の教え子の中で、最も期待をかけられていた生徒だ」
藤原陽菜は苦笑した。
「畑木先生がそれを聞いたら、きっと笑うでしょう」
優雅ながら厳しいな恩師を思い浮かべ、彼女の笑みが少し薄れた。
「さっきニュースで見たけど、畑木先生も校慶に参加しているんだね。調子はどうでしょうか」
「元気だよ。ただ、私たちのようなろくでもない教え子が頻繁に顔を出すせいで、うんざりしているらしい」
藤原陽菜は思わず微笑み、恩師の厳しい指導のもとで論文に没頭した日々を懐かしんだ。
榊原翔太は彼女を見つめた。
「戻ってこい、陽菜」藤原陽菜は茶杯を握る指に力を込め、深く息を吸ってから頷いた。
「……うん」
人工知能は、彼女が幼い頃から心血を注いできた分野だった。
その情熱は、決して消えていなかった。
藤原悠真のために、彼女は自分の理想を六、七年も棚上げにしてきた。
長い空白を埋めるには時間がかかるかもしれない。
だが、努力さえすれば、まだ遅くないと信じていた。
榊原翔太がまた尋ねた。
「いつ頃戻れる?」
「今の仕事の引き継ぎがあるから、少し時間がかかる」
「急がなくていい。戻ってきてくれるだけで十分だ」
二人が話していると、榊原翔太は時計を見て言った。
「部下がアルゴリズムの天才を紹介してくれて、後で会う約束をしている。せっかくだから、一緒に会わないか?」
「榊原さんのチームの人たちとは一人も知らないから、今回は遠慮しておく」藤原陽菜は首を振った。
「わかった」
榊原翔太が去るとすぐ、藤原陽菜は藤原悠真の姉・藤原鈴音が近づいてくるのを見つけた。
ニュースで彼女の姿は見ていたが、まさかここで会うとは思わなかった。藤原陽菜は挨拶した。
「鈴音姉さん」
藤原鈴音は返事もせず、眉をひそめて彼女を見た。
「どうしてここに?」
「東京大学の145周年の記念日で、戻ってきただけです」
藤原陽菜が言わなければ、藤原鈴音は彼女も東大出身だということをほぼ忘れていた。
今日ここに来られるのは、在校生や教職員以外、招待された優秀菜校友ばかりだ。
無名の藤原陽菜が何の用で来たのか
……まあいい。
陽菜が大人しくしていて、藤原家の顔に泥を塗らなければ、藤原鈴音は干渉する気もなかった。
そう思うと、藤原鈴音は用件を切り出した。
「健太が、あなたの作る料理が食べたいと騒いでいる。後で健太を悠真たちのところに送るから」
健太は藤原鈴音の息子で、藤原景子より一、二歳年上だ。
藤原鈴音夫婦は不仲で、彼女は仕事に忙殺されていたため、ここ数年は子供のしつけがおろそかになり、反抗期の息子を制御できなくなっていた。
息子が藤原陽菜の料理を気に入っていると知り、藤原鈴音は暇さえあれば健太を彼らのもとに預けていた。
藤原家では老夫人を除き、誰も藤原陽菜をまともに扱わない。
子供は敏感に周囲の態度を読み取る。
健太は陽菜の料理は好きだが、心の底ではこの叔母を蔑んでおり、来るたびに陽菜をメイドのように扱っていた。
以前の藤原陽菜なら、藤原悠真のために藤原鈴音の子供に尽くし、無礼にも耐えてきた。
だが今、彼女は藤原悠真と離婚しようとしている。
もう彼のために自分を押し殺すつもりはない。
「すみません、鈴音姉さん。明日は予定があって無理です」
専門分野に戻るなら、彼女の時間はすべて仕事の勉強に費やされる。
藤原悠真も藤原鈴音も、離婚後は彼女とは無関係だ。
これ以上、一秒も彼らのために時間を浪費したくない。
藤原鈴音は藤原陽菜が断るとは思っていなかった。
これまで、藤原陽菜は藤原悠真のために、藤原家の人々に媚びへつらうことを厭わなかったからだ。
まあ、彼女が一度も拒否したことがないのだから、今回は本当に用事があるのだろう。
でなければ、自分に取り入る機会を逃すはずがない。
それでも、彼女は少し不愉快だった。
「悠真も景子もいないのに、何の用事だ?」
藤原陽菜はその言葉に、胸が少し痛んだ。
これまで自分のことを無視して、藤原悠真と娘を最優先に生きてきた。
藤原鈴音にそう言われるのも、無理はない。
だが、もう終わりだ。
彼女が返事をしようとした時、ちょうど数人が近づいてきた。
「藤原さん!」明らかに藤原鈴音を探していた人々だ。
藤原陽菜を見て、一瞥した後で尋ねた。
「藤原さん、こちらは?」藤原鈴音は弟の妻とは紹介せず、冷たい調子で答えた。
「知り合いよ」
「ああ、知り合いですか……」
彼らは藤原鈴音と同じく校慶に招かれた校友で、社会的地位も高い。
藤原鈴音が知り合いと話しているのを見て、何かしらの人物かと思ったが、彼女の態度を見て興味を失った。
中には藤原陽菜の整った顔立ちと、スラリとした白い脚線美に目を留める者もいたが、すぐに藤原鈴音を囲んで立ち去った。
藤原鈴音が自分の立場を認めないこと。
以前の藤原陽菜なら、傷ついたかもしれない。
だが今は、どうでもよかった。
藤原鈴音が去ると、彼女も鞄を手に、その場を後にした。
その夜10時過ぎ、藤原悠真と藤原景子を乗せた飛行機が定刻通り着陸した。
藤原家の本邸に到着したのは、深夜近くだった。
藤原景子は車の中で既に眠っていた。
藤原悠真は娘を抱いて階段を上がり、主寝室の前を通りかかった時、ドアが開いて中が真っ暗なのに気づいた。
娘を部屋に寝かせた後、彼は主寝室に戻り、壁の照明を点けた。
ベッドを見ると、誰もいない。
藤原陽菜はいなかった。
ちょうど執事が荷物を運んで上がってきた。
藤原悠真はネクタイを緩めながら尋ねた。
「彼女は?」
「奥様は出張で……」執事は慌てて答えた。
実は半月前、藤原陽菜が荷物をまとめて出て行った時、この執事は不在だった。
他の使用人が「スーツケースを持って出かけた」と言っていたので、出張だろうと思い込んでいた。
確かに、奥様は以前は滅多に出張しなかった。
行っても二、三日で戻ってきた。
回は半月も帰ってこない。
少し変だが、特に気にも留めていなかった。
藤原悠真は「うん」とだけ返し、それ以上は聞かなかった。