翌日。
藤原悠真が会社に到着した時、藤原陽菜とばったり出くわした。
藤原陽菜は、藤原悠真と藤原景子が既に帰国していたことを知らなかった。
突然の遭遇に、彼女の足が一瞬止まる。
藤原悠真も藤原陽菜を見て幾分驚いた様子だったが、出張から戻ったばかりだと解釈し、深くは考えなかった。
無表情で彼女を他人のように扱い、冷たくすれ違って会社に入って行った。
以前なら、彼の突然の帰国を知れば、藤原陽菜は大喜びしただろう。
こんな場面でも、抱きつくことはできなくとも、興奮と喜びを瞳に浮かべながら彼を見つめ、たとえ冷たくされても笑顔で「おはよう」と声をかけたものだ。
だが今、藤原陽菜は彼の整った顔を一瞥しただけで目を伏せ、かつての興奮や喜びはもう表情に浮かべなかった。
藤原悠真はそれに気付く間もなく、先に立ち去ってしまった。
その堂々とした背中を見ながら、藤原陽菜は思った。
いつ帰国したのかはわからないが、彼が戻ってきたなら、離婚の話もすぐに進むだろうか 。
決意を固めた彼女は、それ以上藤原悠真のことを考えず、自分のデスクに戻るとすぐに仕事に集中した。
30分後、神崎慎から電話がかかってきた。
「コーヒーを2杯淹れて、社長室に持ってきてくれ」と。
昔、藤原悠真に好かれるために、彼がコーヒーを好きだと知り、彼女はあらゆる工夫を凝らして研究した。
努力は報われ、彼は自宅でも会社でも、彼女の淹れるコーヒーを指定するようになった。
当時、藤原悠真が本当に自分のコーヒーを気に入ってくれたと知り、彼女は長い間興奮していた。
これが成功への第一歩だと思ったからだ。
しかし実際には、藤原悠真の彼女への嫌悪と警戒心を過小評価していた。
確かに彼は彼女の淹れるコーヒーは好きだった。
だが、それだけだった。
彼女自身に対しては、相変わらず冷たく、距離を置いていた。
だから、コーヒーを飲みたい時、彼は通常神崎慎を通じて連絡させ、淹れた後も神崎慎たちに取りに来させた。
彼女が近づく隙さえ与えなかった。
たまに神崎慎たちが忙しい時だけ、彼女は直接社長室に運ぶ機会を得た。
今回は、神崎慎の話し方から察するに、淹れたら直接藤原悠真に届けるようだ。
藤原陽菜はコーヒーを淹れ、トレイに載せて社長室に向かった。
ドアは開いていた。ノックしようとした瞬間、下瀬知絵が藤原悠真の膝の上に座っているのが見えた。
二人はキスをしているように見えた。
藤原陽菜の足が止まり、顔から血の気が引いた。
彼女の存在に気付いた下瀬知絵は慌てて藤原悠真から離れた。
藤原悠真の表情は険しく、「誰が来ていいと言った?」と冷たく言い放った。
藤原陽菜はトレイを強く握りしめ、「コーヒーをお持ちしただけです――」
「もういい、秘書」もう一人の秘書、田中涼太がちょうど到着した。
彼は藤原陽菜と藤原悠真の関係を知っていた。
「こんなことしても意味ないですよ」
直接は言わなかったが、藤原陽菜はその真意を悟った。
下瀬知絵が来ているのを知っていて、わざと邪魔をしに来たと思われているのだ。
藤原悠真の表情から察するに、彼も同じように考えているようだった。
以前なら、確かに彼女はそんなことをしたかもしれない。
だが今、離婚しようとしているのに、そんなことをするはずがない。
しかし、説明の機会は与えられなかった。田中涼太は冷たく言った。
「すぐに退出してください」
藤原陽菜の目が赤くなり、コーヒーカップが震えて中身がこぼれ、指を火傷した。
しかし声も出さず、その場を去った。
2歩歩いたところで、藤原悠真の声が再び響いた。
「次回があれば、会社に来る必要はなくなる」
彼女は既に辞表を出している。
この件がなくとも、後任が見つかり次第、すぐに会社を去るつもりだった。
だが、彼女に関してここで気にかける者などいない。
言っても無意味だ。
藤原陽菜は黙ってトレイを持ち、その場を離れた。去り際、下瀬知絵の優しい声が聞こえた。
「いいのよ、悠真。きっとわざとじゃないわ。そんなに怒らないで……」
コーヒーを捨て、火傷した指を水道水で冷やし、慣れた手つきでバッグから軟膏を取り出して手当てした。
今でこそ料理もコーヒーも上手だが、結婚前は家事も料理もできず、コーヒーなど飲んだこともなかった。
結婚後、藤原悠真と子供のために、全てを習得したのだ。
最初はひどい出来だったが、完璧と言えるまでに膨大な時間を費やした。
その苦労は、彼女だけが知っている。
バッグの常備薬――子供を育てる母親なら、薬を持ち歩くのが当然だ。
ただ、藤原景子が藤原悠真とA国に行ってからは、ほとんど使う機会がなかった。期限が切れていなくてよかった。
傷を処置し、針で刺されるような心の痛みを押し殺し、デスクに戻って仕事を再開した。
書類の整理を終えた時、同僚の会話が耳に入った。
「社長の恋人が会社に来たらしいよ!」
「恋人?社長に恋人が?誰?どんな人?美人?」
「詳しいことはわからないけど、受付の話だと超お嬢様で、超美人で、雰囲気も半端ないらしい!」
二人が話している最中、藤原陽菜が立ち上がったのを見て、会議に同行することを思い出し、慌てて口をつぐんだ。
「仕事優先、噂は後でな」
藤原陽菜はその「恋人」が下瀬知絵のことを指していると理解した。
しかし、何の表情も変えず、オフィスを出て同僚と共にエレベーターに乗った。
エレベーターを降り、会議室に向かおうとした時、下瀬知絵が4人の重役に囲まれてこちらに向かってくるのが見えた。
重役たちは下瀬知絵を丁重に扱い、媚びへつらっている。
下瀬知絵は上品に笑っていた。
「わざわざ会社をご案内いただき、恐縮です」
全身高級ブランド品に身を包んだ彼女の振る舞いは、まさにお嬢様そのものだった。言葉は丁寧だが、既に社長夫人の如く振る舞い、重役たちを部下のように扱っている。
重役たちはへつらうように笑った。
「社長とのご関係を考えれば、当然の務めです」
「そうそう」
彼らはエレベーターから出てきた藤原陽菜たちを見ると、道を譲っているにもかかわらず、眉をひそめた。
「どう歩いているんだ?下瀬様に失礼があっては困る!礼儀知らずめが!」