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第10話

藤原悠真が自宅に着いたのは、夜11時近くだった。


藤原景子が目をこすりながら「お父さん、お帰り」と声をかけると、


「うん」と淡々とした返事。


「眠いなら先に寝ろ」


「はーい。お父さん、おやすみ」


「ああ」


景子が二階に上がった後、藤原悠真は執事から渡された水を一気に飲み干し、自らも階段を上った。


主人寝室は相変わらず真っ暗で、誰もいないようだった。


照明をつける。


案の定、人影はない。


彼は深く考えず、陽菜が水原家に帰ったのだろうと推測した。


浴室に向かう途中、はっと気づいた。

普段なら陽菜は景子を必ず連れて行くのに、今日は連れていなかった。

もしかして水原家には行っていないのか?


それとも水原家に何かあったのか?


午後に田中涼太が言っていたことを思い出すと、藤原悠真は後者だと判断した。


足を一瞬止めたが、特に詮索する気もない。


翌朝の食卓で、藤原悠真は景子に告げた。


「入学手続きは済んだ。明日の朝、登校だ」


「わかってるよ」景子は小さな鼻をひくひくさせ、「お父さん、明日送ってくれる?」


「時間が取れるかどうかわからない」


「そっか…」


彼女は目をきらりと輝かせ、突然嬉しそうに言った。


「じゃあ知絵お姉さんに電話して、送ってもらおっ!」と。


藤原悠真が返す間もなく、携帯が鳴った。


藤原家の本宅からの着信だ。


電話に出ると、藤原老夫人の声だった。


「帰国したそうだな?」


「ああ」


「景子も戻ったのか?」


「戻った」


「久しぶりに会いたい。今夜は陽菜と景子を連れて食事に来い」


「わかった」


「陽菜は?少し話がしたい」と藤原老夫人はさらに尋ねた。


「いない」


「この時間にいないわけがないだろう」


「水原家に帰っているかもしれない」


「かもしれない?妻の行き先も把握していないとは!」


藤原悠真は沈黙した。


「あなたは…」老夫人は深いため息をつき、結局何も言わなかった。


藤原悠真はようやく口調を和らげ、話題を変えた。


「食事は済んだか?」


「もう食べる気じゃない!」


彼は薄く笑いを浮かべ、平然と朝食を続けた。


藤原老夫人は孫の性格をよく理解していた。


彼と陽菜の現在の婚姻状態は、彼なりの妥協の結果だ。


これ以上追い詰めるわけにはいかない。


「もういい。話にならん」


「ああ、夜に会おう」


「ふん!」老夫人は怒ったように電話を切った。


藤原景子は最初会話に注意を払っていなかったが、後半の言葉に興味を持った。


「お父さん、誰だったの?」


「おばあさんだ」藤原悠真は陽菜に電話をかけながら答えた。


「今夜、食事に行くようにと言われている」


藤原老夫人は景子を大変可愛がっており、彼女も祖母が好きだった。


「いいね!私もおばあちゃんに会いたかったんだ」


藤原悠真は携帯を見つめ「ああ」とだけ応じた。


この時、藤原陽菜は水原家で朝食を取っていた。


藤原悠真からの着信を見て、手が一瞬止まった。


以前のような胸の高鳴りはもうない。


2秒躊躇してから出た。


「もしもし」


「祖母が今夜食事に行くようにと言っている」


「分かった」

「夜は子供を迎えに戻れ」


陽菜はもう彼の元に行く気はなかった。


何より、自分が迎えに行ったとしても、娘が喜ぶかどうか…


自らつらい思いをする必要はない。


「運転手に送らせましょう。私は仕事が終わり次第、自分で車でいきます」


ラッシュアワーを考えれば、確かにそれが一番合理的だった。


しかしこれまで景子に関することは、陽菜がどんなに忙しくても必ず自ら行い、決して面倒だと思ったことはなかった。


そんな彼女が今こう言うのは、藤原悠真にとって少々意外だった。


だが些細なことだ。


深く考える必要はない。


「わかった」そう言って電話を切った。


今度は景子が電話の相手に気づいた。


「お母さんだった?」


「ああ」


「じゃあ今夜はお母さんも一緒におばあちゃんちに行くの?」


「ああ」


藤原景子は思わず眉をひそめた。


お母さんに会いたくないわけではない。


会いたくない…わけではない。


考えてみれば、長い間お母さんに会っていない。


お母さんもこれまでにないほど、半月以上も連絡をよこさなかった。


心のどこかで、少し寂しく思っていた。


しかし今夜一緒に本宅に行けるということは、お母さんが今日中に「出張」から帰ってくるということだ。


帰国翌朝、目が覚めてからお母さんが出張したことを知った時、彼女は心底嬉しかった。


この機会に、たっぷり知絵お姉さんと一緒にいられると思っていた。


お母さんの帰りが遅くなることを願っていたのに、たった2日で戻ってくるなんて…


お母さんが戻れば、明日知絵お姉さんに学校へ送ってもらうことなど、絶対に許してくれないだろう。


明晩の知絵お姉さんのレース観戦も、お母さんが知れば間違いなく禁止するに決まっている。


そう思うと、彼女の気分は沈んだ。


それに、もう知絵お姉さんに送ってもらう約束をしてしまった。


知絵お姉さんも快く引き受けてくれたのに…


どうしよう…


藤原景子はしょんぼりとした。


「お父さん…」


「何だ?」


藤原悠真が視線を向ける。


彼女はお父さんに、お母さんを説得してくれるよう頼もうと思ったが、お母さんが聞けばきっとお父さんと喧嘩になる…


もう最悪!急に食欲が失せた。


まあ、明日の登校は仕方ない。


お母さんに送ってもらおう。


でも明晩の知絵お姉さんのレースは、どうしても行く!


そう心に決め、景子は藤原悠真に甘えた声で言った。


「お父さん、明晩知絵お姉さんのレースに連れて行くって約束したよね?お母さんが知ったら絶対ダメって言うから。だからお母さんには内緒にして!もしお母さんに聞かれたら、お父さんがかばってくれるよね?」


「わかった」


承諾を得て、景子の気分は少し晴れた。


その後、藤原悠真は朝食を終え出社した。


藤原陽菜はこの日、会社で悠真とは顔を合わせなかった。


昼時、水原老夫人から電話があり、銀座の寿司店で昼食を共にするよう言われた。


銀座は藤原株式会社から歩いて数分の距離だ。


陽菜が会社を出て、寿司店の入口近くの角を曲がろうとした時、聞き覚えのある声が耳に入った。


「悠真さん、今回は本当にお世話になりました。あなたの助力がなければ、どんなに苦労してもこの契約を取れるかどうか…心から感謝しています」


この声は――


陽菜の足がぴたりと止まった。


そっと覗き込むと、実父・下瀬敬介の横顔が視界に入った。


すると藤原悠真が口を開いた。


「伯父さん、お気になさらず」


陽菜の手がゆっくりと握り締められた。


彼の今の口調は、普段より幾分柔らかい。


彼がこのように接する相手は、全て彼が重要視する人物ばかりだ。


藤原悠真が下瀬敬介を重視する理由が自分にあるはずがない。


ましてや彼が下瀬敬介を助けるのは、自分のためでは決してない。


下瀬敬介が母親と離婚して以来、二人はほとんど会っていない。


今や下瀬敬介が公に娘と認めているのは、下瀬知絵ただ一人だった。


彼らの間には、もはや父娘の情などない。


案の定、下瀬敬介は続けた。


「知絵が一人でこちらにいるのは、妻ともども心配で…これからも彼女をよろしくお願いします」

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