藤原悠真が自宅に着いたのは、夜11時近くだった。
藤原景子が目をこすりながら「お父さん、お帰り」と声をかけると、
「うん」と淡々とした返事。
「眠いなら先に寝ろ」
「はーい。お父さん、おやすみ」
「ああ」
景子が二階に上がった後、藤原悠真は執事から渡された水を一気に飲み干し、自らも階段を上った。
主人寝室は相変わらず真っ暗で、誰もいないようだった。
照明をつける。
案の定、人影はない。
彼は深く考えず、陽菜が水原家に帰ったのだろうと推測した。
浴室に向かう途中、はっと気づいた。
普段なら陽菜は景子を必ず連れて行くのに、今日は連れていなかった。
もしかして水原家には行っていないのか?
それとも水原家に何かあったのか?
午後に田中涼太が言っていたことを思い出すと、藤原悠真は後者だと判断した。
足を一瞬止めたが、特に詮索する気もない。
翌朝の食卓で、藤原悠真は景子に告げた。
「入学手続きは済んだ。明日の朝、登校だ」
「わかってるよ」景子は小さな鼻をひくひくさせ、「お父さん、明日送ってくれる?」
「時間が取れるかどうかわからない」
「そっか…」
彼女は目をきらりと輝かせ、突然嬉しそうに言った。
「じゃあ知絵お姉さんに電話して、送ってもらおっ!」と。
藤原悠真が返す間もなく、携帯が鳴った。
藤原家の本宅からの着信だ。
電話に出ると、藤原老夫人の声だった。
「帰国したそうだな?」
「ああ」
「景子も戻ったのか?」
「戻った」
「久しぶりに会いたい。今夜は陽菜と景子を連れて食事に来い」
「わかった」
「陽菜は?少し話がしたい」と藤原老夫人はさらに尋ねた。
「いない」
「この時間にいないわけがないだろう」
「水原家に帰っているかもしれない」
「かもしれない?妻の行き先も把握していないとは!」
藤原悠真は沈黙した。
「あなたは…」老夫人は深いため息をつき、結局何も言わなかった。
藤原悠真はようやく口調を和らげ、話題を変えた。
「食事は済んだか?」
「もう食べる気じゃない!」
彼は薄く笑いを浮かべ、平然と朝食を続けた。
藤原老夫人は孫の性格をよく理解していた。
彼と陽菜の現在の婚姻状態は、彼なりの妥協の結果だ。
これ以上追い詰めるわけにはいかない。
「もういい。話にならん」
「ああ、夜に会おう」
「ふん!」老夫人は怒ったように電話を切った。
藤原景子は最初会話に注意を払っていなかったが、後半の言葉に興味を持った。
「お父さん、誰だったの?」
「おばあさんだ」藤原悠真は陽菜に電話をかけながら答えた。
「今夜、食事に行くようにと言われている」
藤原老夫人は景子を大変可愛がっており、彼女も祖母が好きだった。
「いいね!私もおばあちゃんに会いたかったんだ」
藤原悠真は携帯を見つめ「ああ」とだけ応じた。
この時、藤原陽菜は水原家で朝食を取っていた。
藤原悠真からの着信を見て、手が一瞬止まった。
以前のような胸の高鳴りはもうない。
2秒躊躇してから出た。
「もしもし」
「祖母が今夜食事に行くようにと言っている」
「分かった」
「夜は子供を迎えに戻れ」
陽菜はもう彼の元に行く気はなかった。
何より、自分が迎えに行ったとしても、娘が喜ぶかどうか…
自らつらい思いをする必要はない。
「運転手に送らせましょう。私は仕事が終わり次第、自分で車でいきます」
ラッシュアワーを考えれば、確かにそれが一番合理的だった。
しかしこれまで景子に関することは、陽菜がどんなに忙しくても必ず自ら行い、決して面倒だと思ったことはなかった。
そんな彼女が今こう言うのは、藤原悠真にとって少々意外だった。
だが些細なことだ。
深く考える必要はない。
「わかった」そう言って電話を切った。
今度は景子が電話の相手に気づいた。
「お母さんだった?」
「ああ」
「じゃあ今夜はお母さんも一緒におばあちゃんちに行くの?」
「ああ」
藤原景子は思わず眉をひそめた。
お母さんに会いたくないわけではない。
会いたくない…わけではない。
考えてみれば、長い間お母さんに会っていない。
お母さんもこれまでにないほど、半月以上も連絡をよこさなかった。
心のどこかで、少し寂しく思っていた。
しかし今夜一緒に本宅に行けるということは、お母さんが今日中に「出張」から帰ってくるということだ。
帰国翌朝、目が覚めてからお母さんが出張したことを知った時、彼女は心底嬉しかった。
この機会に、たっぷり知絵お姉さんと一緒にいられると思っていた。
お母さんの帰りが遅くなることを願っていたのに、たった2日で戻ってくるなんて…
お母さんが戻れば、明日知絵お姉さんに学校へ送ってもらうことなど、絶対に許してくれないだろう。
明晩の知絵お姉さんのレース観戦も、お母さんが知れば間違いなく禁止するに決まっている。
そう思うと、彼女の気分は沈んだ。
それに、もう知絵お姉さんに送ってもらう約束をしてしまった。
知絵お姉さんも快く引き受けてくれたのに…
どうしよう…
藤原景子はしょんぼりとした。
「お父さん…」
「何だ?」
藤原悠真が視線を向ける。
彼女はお父さんに、お母さんを説得してくれるよう頼もうと思ったが、お母さんが聞けばきっとお父さんと喧嘩になる…
もう最悪!急に食欲が失せた。
まあ、明日の登校は仕方ない。
お母さんに送ってもらおう。
でも明晩の知絵お姉さんのレースは、どうしても行く!
そう心に決め、景子は藤原悠真に甘えた声で言った。
「お父さん、明晩知絵お姉さんのレースに連れて行くって約束したよね?お母さんが知ったら絶対ダメって言うから。だからお母さんには内緒にして!もしお母さんに聞かれたら、お父さんがかばってくれるよね?」
「わかった」
承諾を得て、景子の気分は少し晴れた。
その後、藤原悠真は朝食を終え出社した。
藤原陽菜はこの日、会社で悠真とは顔を合わせなかった。
昼時、水原老夫人から電話があり、銀座の寿司店で昼食を共にするよう言われた。
銀座は藤原株式会社から歩いて数分の距離だ。
陽菜が会社を出て、寿司店の入口近くの角を曲がろうとした時、聞き覚えのある声が耳に入った。
「悠真さん、今回は本当にお世話になりました。あなたの助力がなければ、どんなに苦労してもこの契約を取れるかどうか…心から感謝しています」
この声は――
陽菜の足がぴたりと止まった。
そっと覗き込むと、実父・下瀬敬介の横顔が視界に入った。
すると藤原悠真が口を開いた。
「伯父さん、お気になさらず」
陽菜の手がゆっくりと握り締められた。
彼の今の口調は、普段より幾分柔らかい。
彼がこのように接する相手は、全て彼が重要視する人物ばかりだ。
藤原悠真が下瀬敬介を重視する理由が自分にあるはずがない。
ましてや彼が下瀬敬介を助けるのは、自分のためでは決してない。
下瀬敬介が母親と離婚して以来、二人はほとんど会っていない。
今や下瀬敬介が公に娘と認めているのは、下瀬知絵ただ一人だった。
彼らの間には、もはや父娘の情などない。
案の定、下瀬敬介は続けた。
「知絵が一人でこちらにいるのは、妻ともども心配で…これからも彼女をよろしくお願いします」