広々とした社長室。空気が凍りついたようだった。
直樹は息が詰まりそうになりながら、自分の耳をつかむ少女を驚愕の目で見つめていた。
少女は絶世の美貌を持ち、キラキラと輝く瞳は少し丸く、笑うとその美しさが一層際立つ。
だが、一度怒ると、その瞳は今にも火を噴きそうで、直樹は本能的に恐れを抱くのだった!
しかし、その恐怖も今の衝撃の前ではかき消され、彼は目の前の光景が信じられなかった。
田中もほとんど窒息しそうで、目をカッと見開いていた!
この女…なんて度胸だ!
社長の耳を引っ張るなんて!
自分が誰だと思ってるんだ!
「藤原様を離してください!」田中は叫び、美香を引き離そうと手を伸ばした。
だが、その手はすらりとした力強い手に遮られ、頭上からは氷のように冷たい声が降ってきた。
「出て行って。」
田中は信じられないといった様子で顔を上げた。「出て行く?私が?」
竹内葵は吹き出しそうになりながらも、彼を引っ張って部屋を出た。
「他に誰がいるの?早く出て!」
彼女は社長がこの少女と二人きりで話す必要があることを知っていた。もし間違いなければ、この少女こそ社長のお姉さんだ。
彼女は大学四年から星輝財閥でインターンを始め、アシスタントから補佐まで四年間勤め上げてきた。かつて社長が酔いつぶれた時に家まで送ったことがあり、そのとき社長は仏壇の写真を指差して涙ぐみながら言った。
「これが俺のお姉さんだ、綺麗だろう?でも、彼女はもうずっと前にいなくなったんだ。」
今の状況は奇妙だが、竹内は余計なことは聞かないと決めていた。
息を切らしながら駆けつけた警備員も、呆然と立ち尽くしていた。追い出されたのが専務だなんて!
オフィスのドアが閉まる。耳の痛みが現実のものとなる。
直樹の目には涙が浮かび、声が震える。「お姉さん…?」
十一年前に亡くなったお姉さんが突然現れるなんて、本当にあり得るのか?
先ほど電話での声にもどこか聞き覚えがあったが、深く考えなかった。誰が十一年前に死んだ人が戻ってくるなんて信じるだろう?
美香は彼の耳を離し、堂々と椅子に座ると、最初の一言で弟をまるで使いっ走りのように扱った。
「水を持ってきて!走り回って疲れた!」
直樹に電話を切られた美香は、警備員に社長室の場所を聞くしかなかった。
警備員は彼女が騒ぎを起こすのを恐れて教えてくれず、彼女は自力で一階ずつフロアを探し回り、警備員が後ろから追いかけてきたが、体力に自信のある彼女はついに最上階で見つけ出した。
社内を牛耳る手腕も冷徹な直樹も、美香の一言に、ほぼ反射的に水を注ぎに行った。これは幼い頃から姉に仕込まれた本能的な反応だ。
美香の額に汗がにじんでいるのを見て、直樹は思わず机の上の書類で彼女に風を送った。エアコンが効いているとわかっていても。
美香は水を一気に飲み干し、コップを置いた。「そうだ、すぐに人払いの命令を止めて!営業再開だ!」
直樹の目の奥に涙がきらめいた。
「お姉さん、本当に…君なのか?」
美香は彼の腕を軽く叩いた。「まずは私の言う通りにしなさい!」
この一撃で、直樹は確信した。これは間違いなく自分のお姉さんだ!
お姉さんが帰ってきた!お姉さんは死んでいなかった!
喜びが彼を飲み込み、他のことを考える余裕もなかった。
彼は立ち上がり、ドアを開けて外の田中に言った。
「人払いはすぐやめるんだ、モール営業を続けろ。」
田中は直樹の顔もよく見えないうちに、またドアが閉まった。彼は目をぱちくりさせて補佐に尋ねた。「竹内さん、今、社長の目が赤かったような…?」
竹内葵は真剣な表情で言った。「見間違いです。すぐに人払いの中止を伝えてください!」
田中は少女の正体がわからないまま、グループチャットとインカムで全警備員に連絡した。
「お姉さん、つまり…十一年前から来たってこと?」直樹は驚きながらも、美香に扇風機代わりに書類で風を送る。
どうせ隠しきれないし。今はもう十一年が経ち、自分が死んだ時とまったく同じ姿。正直に話すしかなかった。
「そうよ、私が着てる服、死んだ日のものだって気づかない?」
直樹はじっと見つめ、目の色を曇らせる。「うん、それは瀬戸達也に会いに行くために着てた服だ。」
あの日のことは一生忘れない。家で何着もドレスを試して、どれが似合うかと姉に聞かれた。姉のデートに乗り気でなかった彼は「どれも似合わない」と言い、姉に叩かれてからようやく黒いドレスが似合うと答えた。
瀬戸達也との約束が、あの日の事故を招いた。それ以来、彼は瀬戸達也をずっと憎んできた。
小説の主人公でもあり、事故の前の彼氏だった瀬戸達也の名が出ると、美香の表情は暗くなった。
当時、彼女は桜川一高のマドンナで、数多くの男子から慕われていた。瀬戸達也は高校一年から三年まで一途に追いかけてきた。最初はそういうチャラい金持ちの道楽息子に好感を持っていなかったが、彼のひたむきさといくつかの出来事がきっかけで、少しずつ見る目が変わり、彼との食事や会話を受け入れるようになった。
大学入試が終わった後、彼は盛大な告白を行い、付き合うことに。事故の日は、彼との初デートの日だった。
実のところ、その時点で瀬戸達也のことをそれほど好きだったわけではなく、もう卒業したし、一度恋を試してみてもいいかなと思っただけだった。
夢の中で、瀬戸達也が芸能界に入り、スキャンダルまみれのプレイボーイになり、小説のヒロイン・早乙女遥と出会って初めて「更生」したことを知る。二人はドラマで共演し、観客の間で人気を集めたカップリングとして、最後はそのまま本物の恋人に。
だが、ヒロインは彼の友人の口から、高校時代に彼が大好きだった少女が事故で亡くなったと知る。
ヒロインは彼に尋ねる。「私とその子、どっちが好き?」
ヒーローは二秒ほどためらい、ヒロインは怒って別れを告げる。
ヒーローは財閥の御曹司でトップ俳優という設定だから、ヒロインの態度に最初は別にどうでもよかった。ヒロインは腹いせに自分を慕う直樹に近づき、彼が出資した映画に出演。
ヒーローはそれを知って正気を失い、復縁を懇願するが、ヒロインはまだ態度を保留している。
結局、私たち姉弟は揃って主人公たちの恋愛ゲームの中のNPCに過ぎないのだ!
「過去のことはもういいわ、ご飯に行きましょう、お腹すいた!」
美香は言った。
直樹は彼女の顔色の悪さを見て、眉をひそめた。姉の顔色がこんなに悪いのは、瀬戸達也の本性を知ったからか?いまやこいつがスキャンダルだらけだし、調べればすぐにわかる。姉さんはきっと悲しいだろう、彼女の記憶の中では瀬戸達也はまだ恋人だ。
直樹は煩わしい気持ちを抱えながら、瀬戸達也の話をやめて立ち上がった。
「何が食べたい?」
美香は即答した。「しゃぶしゃぶ!」
直樹は美香の後ろについてオフィスを出る。
いつもは冷たくて強気な社長が、今はまるで従順な子分のようだ。
長女の威圧力とは、こういうものか。
補佐の竹内が近づいてきて、一切動じないプロらしい態度で声をかけた。
「藤原様。」
彼女は美香を見て、手を差し出した。
「はじめまして、社長補佐の竹内葵です。」
竹内はスーツ姿で背が高く、クール美人のイメージ。
美香はこういう美女が大好きなので、にっこりと目を細めた。
「竹内さん、こんにちは!美香です。葵さんって呼んでもいい?」
直樹は一瞬きょとんとし、自分の十八歳のお姉さんと、自分より一歳年下の竹内葵を見比べる。
竹内は直樹の顔が少し曇ったのに気づき、美香に好感を持ちながらも、やんわりと断った。「それはちょっと、竹内さんでお願いします。」
美香はすでに夢の中で、葵が直樹についてきて、彼が破産しても離れなかったことを知っている。こんな人なんだから、きっと直樹の姉である自分のことも知っているだろう。
彼女はきっぱりと言い放った。
「気にしないで、今後はそれぞれの立場で好きに呼んでよ。彼は私を姉さんと呼ぶけど、私はあなたを葵さんと呼ぶわ!」
竹内葵「……」
直樹「……」
直樹は言いたいことがあったが、言えなかった。ただ話題をそらした。
「とにかく、先にご飯を食べよう。」
田中はすでに竹内葵に追い払われ、社長の私事はなるべく多くの人に知られないように。
「じゃあ、お二人でどうぞ。私はここで待っています。」竹内葵は言った。
美香は竹内葵の手をつかんだ。「一緒に!三人の方が賑やかでしょ!」
竹内葵は少し驚いて直樹を見た。
直樹は異論がなかった。竹内葵は彼が最も信頼する部下だ。
「一緒に。」と直樹が言った。
ショッピングモールの人波も戻り、美香はほっとした。モールは元通りに!
しゃぶしゃぶ店に入り、席についたところで直樹の携帯が鳴った。
早乙女遥からのメッセージだった。
【直樹くん、もう着いたよ。でも人が多い。人払いまだ終わってないの?】