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第8話 渾身の演技


「このスーツでいいかな?」服部遼介はアシスタントの小林拓也に尋ねた。


小林拓也は無感情に一瞥して、「いいと思います」と答えた。なんてこった、これで白いスーツは二十五着目だ!男の自分にはどれも同じにしか見えない。眼鏡だって、銀縁や金縁、デザインもほとんど変わらない。それに今夜は特に大事な予定もないのに。社長は一体どうしたんだ?さっきから五回もシャワー浴びてるし!


「じゃあ、もう帰っていいよ」服部遼介は退社を促した。


小林拓也はまるで恩赦を受けたかのようにバッグを掴んで立ち上がる。

「はい、服部様。お疲れ様でした。また明日!」


別荘は静寂に包まれた。服部遼介は鏡の前で入念に身だしなみを整える。髭はきれいに剃り、眉毛も整え、髪はさっぱり、新しい眼鏡。完璧だ。清潔そのもの。着替えで少し汗をかいたせいか、またシャワーを浴びたくなったが、時計を見るとすでに夜8時。美香がいつ来てもおかしくない。最高の状態を保たねば。


アシスタントから、藤原の補佐・竹内がこの別荘の現オーナーを調べていると報告が入っていた。彼の夜中の推測が裏付けられた――彼女の睡眠障害が、ここに戻らざるを得ない理由だった。美香は今日、きっと来る。だから一日中家で仕事をしていたのだ。彼女を待つために。


この別荘地は山の中腹にあり、彼の棟は一番外れ。山道に車の音が響くたびに、服部遼介はクローゼットの窓越しに外を見やり、思わず心拍数が上がる。


そして今、また一筋のヘッドライトが山道の闇を切り裂き、ゆっくりと近づいてきた。


服部遼介は息を詰め、無意識にネクタイを緩めてはまた締め直す。部屋の中を行ったり来たり、掌には汗が滲み、昨夜の傷口に染みて鋭い痛みを感じた。


今度こそ、彼女だろうか?


「ピンポーン!」


美香がインターホンを押した。


直樹はその隣に立ち、彼女に訊ねる。

「本当に服部遼介で間違いない?」


美香は肩をすくめる。

「葵さんがくれた情報だから、間違いないと思うわ」


直樹は左手で癖のように右手首の数珠を回しながら言った。

「このあたりの別荘は今はもう高くないし、住んでる人も少ない。富裕層はもう別の場所に移った。服部遼介みたいな人がこんな古い別荘に住むなんて、ちょっと変だな」


彼は服部遼介とは親しくないが、感謝の念はある。


星輝財団がここまで来られたのも、桜坂キャピタルの支援があったからだ。


何度か食事に誘ったが、毎回丁重に断られ、プロジェクト担当者に連絡してくれとしか言われなかった。


投資家は付き合いが多くて忙しいのも、仕方ないことだ。


思えば、最後に服部遼介を見かけたのは、あの“お姉さん”の「葬式」の日。


彼も出席していたが、上品な顔に感情はなく、どこか虚ろな目をしていた。


彼と“お姉さん”がライバルだったという噂も聞いたことがある。


あの時はライバルの死を惜しんでいたのかもしれない。今日はその再会だ。この縁もあるし、きっと別荘を売ってくれるはずだ。


インターホンはしばらく鳴り続けた。


美香はもう一度押した。別荘には明かりがついている、絶対に誰かいるはずだ。


「ピンポーン!」


今度はすぐに足音が聞こえ、ドアが開いた。執事が現れる。


「どちら様をお探しですか?」


美香は丁寧に答えた。

「こんばんは、服部遼介さんにお会いしたいのですが、ご在宅でしょうか?」


「主人にご用ですか?お二人は?」


美香は考えてから言った。

「高校時代の同級生だと伝えてください。急用です」


一昼夜眠れていないせいで、頭がぼんやりしていた。今すぐにでも昔のベッドに横になりたい!


執事は二人をじっと見て、「かしこまりました。少々お待ちください」と、ドアを閉めて中に入った。


美香は思わずぼやいた。「服部遼介、今やすっかり偉そうになっちゃって!」


直樹は少し眉をひそめたが、口を挟まなかった。玄関には監視カメラがあるかもしれない。お姉さんならともかく、自分は不謹慎なことは言えない。来年の投資は欲しいしな。


すぐに執事が戻って来た。「どうぞ、お入りください」


美香と直樹は執事に案内されてガーデンへ。


夜の庭園は丁寧に手入れされていて、微かな風に花の香りが漂っていた。


この庭は、美香が住んでいた頃よりずっと立派になっている。


当時は果樹ばかり植えていた。果物が好きだったからだ。


二度もサクランボの苗を買ったのに、どちらもサンザシが実ったので腹を立てて業者にクレームを入れたことも。


入り口の噴水は今もあり、ライトが水面に映って幻想的な雰囲気。


ここに足を踏み入れた瞬間、張り詰めていた美香の神経も一気に緩んだ。まるで帰ってきたような気分――実際、彼女の時間軸では一昨日までここに住んでいたのだから。


噴水を回り込んでリビングへ。


執事が告げる。「旦那様、お客様がいらっしゃいました」


すると、階段の上から柔らかく響く声がした。「ありがとう」


美香は顔を上げた。


白いスーツに身を包んだ美男子がゆっくりと階段を下りてくる。細い銀縁眼鏡をかけ、気品と距離感を漂わせている。長い脚が一歩一歩進むたび、鼻先の小さなホクロが光と影の中にちらりと見え隠れした。


「こんばんは。執事から高校の同級生だと聞きました。お名前は?」

男は気だるげな口調で尋ねるが、そこには支配者の威圧感が自然と漂う。もう昔の繊細な学生の面影はない。


しかし、その視線は直樹にだけ向けられていた。


直樹は少し困ったように口を開く。

「服部様、私はその同級生ではありません。こちら、私のお姉さんが同級生です」


男はその時初めて隣の少女に気づいたようで、メガネを指で押し上げて見つめた。

「お姉さん?」


夜明けの薄明かりの中では分からなかったが、今、はっきり美香の顔を見て、十八歳の時とまったく変わっていないことに驚いた――髪型も長さも、眉も目も、鼻も唇も……


直樹が説明する。

「ええ、見た目は若いですが、実際は私の姉なんです」

外ではそう説明するしかない。


美香は、ライバルが自分のことをすっかり忘れていることにちょっと驚いた。でも無理もない、十一年も経てば、相手の人生は十分に波乱万丈だった。無一文の学生から資産数兆円の大富豪になったのだから、伝説だ。来る前に心の準備もしていたし、ショックはそれほどでもない。


頭がふらつきながらも、一歩前に出て明るく笑いかけた。

「こんばんは、藤原美香です。覚えていないかもしれませんが、2014年の大学入試は覚えてるでしょう?私は東京大学の首席合格で、あなたはちょっとだけ及ばなかった」


服部遼介:「……」


直樹:「……」


直樹は思わず目を見開いた。さすがはお姉さん!こんな言い方されたら忘れようがないだろう。服部遼介の人生で数少ない2位だった瞬間だ。だがしかし、それを言われて、別荘を売ってくれるだろうか……?


いつも冷静な関東の貴公子が、口元をピクピクさせて何か病気を起こしたかのようだ。


服部遼介の目に、ふと納得したような光が走り、微かに笑みが浮かぶ。内心深く隠された狂気と執着を、絶妙に隠しながら。何か言おうとしたその時――


少女は、突然ふらりと前に倒れ、そのまま彼の胸の中に崩れ落ちた。


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