柔らかくて温かい身体が突然胸元に飛び込んできて、服部遼介の頭の中は一瞬で真っ白になった。全身がこわばり、まったく動けない。
少女の頬が自分の胸に触れ、ずるずると滑り落ちそうになるのを見て、とっさに手を伸ばそうとしたが、すぐに引き離された。
直樹が美香を支えながら、眉をひそめる。
「姉さん!どうしたんだ?」
引き起こされて、美香は少しだけ意識がはっきりした。頭を振った。
「大丈夫。一日一晩、目を閉じてなかったから、眠すぎるだけ。」
直樹はほっとため息をついて、服部遼介の方に向き直る。
「服部様、すみません。うちの姉は、重度の睡眠障害がありまして、昨夜も全然眠れなかったんです。さっきのは事故です。」
彼は、服部遼介が姉がわざと抱きついたと勘違いしないか心配だった。
だが、服部遼介は噂通りの冷静さと自制心を持っているようだった。美女が自分に抱きついても、まるで何の反応もない。
桜川市のビジネス界では、彼の性的嗜好が謎だと噂されている。直樹は以前は信じていなかったが、今はちょっと信じたくなった。
何しろ、当時お姉ちゃんは桜川第一高校で大人気だったのに、この男が彼女の最大のライバルになったのは、たぶん本当に女性に興味がないからだろう。
美香はようやく落ち着き、自分がどれだけ恥をかいたかに気づくと、顔が熱くなった。無理やり元気そうに笑って、「そう、今日はそのことで来たの。」
残る身体の異様な感覚に、服部遼介は背を向け、目の奥の感情を隠した。
「座って話そう。」
リビングには、深緑色の本革ソファが置いてあった。
美香の目が輝く。
「服部遼介、このソファ、まだ残してたの?」
服部遼介はソファに腰を下ろし、長い脚を組んで、さりげなく服の裾を直した。
「まだ使えるから。」声は淡々としていた。
「で、用件は?」
美香は懐かしいソファに腰を下ろし、革の質感を撫でてみた。
「手入れが行き届いてるね。これ、私が昔フランスでオーダーしたやつなんだよ。」
まさか、数千億の資産を持つライバルが、こんなに倹約家だったとは。高校時代、彼の家庭は普通だったし、制服もいつも色あせていたのを思い出した。
二人の距離は1メートルもなかった。服部遼介は視線と呼吸をコントロールしながら、淡々とした声を保つ。
「ここ、前は君の家だったのか?」
美香はうなずいた。「うん、今日来たのは、この家を買い戻したいから。」
目の下を指差して、「このクマ見てよ、もうパンダみたい。昔の同級生のよしみで、私が過労死するの見たくないでしょ?」
道徳的な圧力をかけるつもりはなかったが、他に方法がなかった。高校時代、寮に泊まろうとしたら三日間一睡もできず、そのまま倒れて病院送りになったことがある。
服部遼介はすでに彼女の目の下のクマに気づいていた。視線を彼女の顔からガラステーブルにすばやく移す。
「申し訳ないが、売るつもりはない。」
直樹も隣に座った。
姉さんと会社最大の投資者が揃った場なので、彼はきちんとした姿勢で膝の上に手を置く。
「服部様、値段は相談できます。どうしても必要でお邪魔しただけです。この辺りは今はそんなに便利じゃないし、住んでる人も少ない。うちの新しい高級住宅地なら、7000平方ほどの大きな家を優先してご用意できます。いかがでしょう?」
美香は心の中で弟にグッジョブ。こういう時は頼りになる。
隣の執事・森村は心の中で舌を巻いた。この別荘の市場価格はせいぜい1億、星輝の住宅は最低でも5億からだ。断るなんてバカだ!
「申し訳ありませんが、売りません。」
服部遼介は口元に微笑みを浮かべ、穏やかに断った。
森村:「……」
「理由は?」美香は身を乗り出して尋ねた。
その白くて整った顔が近づき、目が潤んで見える。服部遼介は喉を鳴らし、コップの水を一口飲んでから、淡く微笑んで逆に問う。
「理由は?」
眼鏡の奥の瞳は深く、感情は読めない。
美香は一瞬戸惑って、気づいた。彼は彼女に絶対に必要な理由を訊いている。彼は金には困っていない、金はただの数字だ。
この人は昔と変わっていない。表面は温和でも、本質は冷たい。
学校で出会っても、彼の目はすぐにそらされ、まるで彼女のことが大嫌いみたいだった。
学年トップは一人しかいられない。そういうことだ。
美香が少しぼうっとしていると、服部遼介は貪るようにもう少し見つめ、眼鏡を直して目線を落とした。「自分は住み慣れたから、引っ越したくない。」
直樹は無意識に左手で右手の数珠をいじり、眉をひそめた。
金で解決できない問題が一番厄介だ。
彼は姉を見る。美香も頭を抱えた。
服部遼介は理由を言わなくてもいいのに、ちゃんと言ってくれたしかも理にかなっている。
自分も住み慣れた家なら売りたくないだろう。美香自身はプライドが高いので、成功したライバルにも大した劣等感を感じず、高値を出せばいいと簡単に思っていたが、今になってようやく、お願いしているのは自分の方だと気づいた。
美香は服部遼介の方に少し身を寄せ、懐かしそうに話し始めた。
「服部遼介、たぶん私のことなんて覚えてないんじゃないかな。
私、昔交通事故で“死んだ”のに、今突然“生きてる”のって、不思議じゃない?」
十一年ぶりの再会、本来ならまず昔話をするべきだろう。
甘い香りがふわりと漂い、服部遼介の心臓はドキドキと速くなり、耳の先が熱くなり、呼吸すら熱を帯びる。
これが今までで二人の一番近い距離だった。
彼の視線は無意識に彼女の柔らかな唇に落ち、頭の中にはただ一つの衝動が膨らんでいく。
もっと近づきたい――
暗い欲望が顔を出し、服部遼介は拳を握りしめ、爪が昨夜できた傷口に食い込む。痛みで我に返り、視線をそらして、ただ一言、「うん」とだけ返した。
美香は話をふったが、相手の反応は淡々としている。彼女は気まずそうに鼻をこすりながら、続けた。
「昔の同級生のよしみだし、私は嘘なんてつかない。私は十一年前からタイムスリップしてきたんだ。信じてくれる?」
直樹は驚いて目を見開いた。まさか姉がこんなあっさりとタイムリープのことを言い出すなんて!彼ですら一番信頼する部下の竹内にさえ話していないのに。
森村は眉をひそめ、この姉さんは本当に話を作るのがうまいと思った。タイムスリップなんて信じるくらいなら、自分が天皇の末裔だと信じるほうがマシだ!
信じる奴がバカだ!
「信じるよ。」服部遼介は穏やかに笑った。
森村:「…………」