四月の柔らかな朝日がマンションの郵便受けを照らしていた。出勤前の慌ただしい足取りで一階のポストを開けた美咲は、薄桃色の封筒がいつもの定位置に収まっているのを見つけて小さくため息をついた。
差出人は祖母の花子。三日連続で届く手紙──しかも、いずれも差し出し日が「平成十七年」などとあり得ない年号で書かれている。美咲は封を切り、歩きながら斜め読みした。
> 美咲ちゃんへ
今日はおじいちゃんと近所の桜を見てきました。満開でね、とてもきれいでしたよ。あなたも風邪を引かないように──
亡くなった祖父と“今日”桜を見たという文章に、美咲は眉をひそめた。バッグの内ポケットには同じような手紙が二通、まだ返事を書けずに折り畳まれている。
駅までの道すがら、スマートフォンが震えた。LINEの通知は母・恵子からだった。
「おばあちゃん、また手紙書いてた? もう止めたほうがいいのかしら」
美咲は「今日も届いたよ」とだけ返し、電車に飛び乗った。窓の外を後ろへ流れていく街並みを見ながら、胸の奥に小さな罪悪感が広がる。子どもの頃、花子が書いてくれた手紙は宝物のようだったはずなのに、今は煩わしさが勝っている自分がいる。
その日の夜、実家から電話がかかった。
「美咲? お母さんだけど、おばあちゃんは今日も机に向かってたわ。肩が痛いのに……」
受話器越しの母の声は疲れ切っている。仕事に家事、そして介護。一度深いため息をついてから、恵子は続けた。
「病院の先生は“好きなことはなるべく続けさせて”って言うけど、手紙となると私たちの負担も増えるのよね。どうしたものかしら」
「……読むの、私も正直つらい。けど、おばあちゃんにとって大事な日課なんだろうな」
電話を切ったあと、美咲は封筒を机に並べた。インクの色は毎回同じ藍色。花子の筆圧は日に日に弱くなっているが、文字は端正だ。
ふと、今日は全文を丁寧に読んでみようと思い立つ。ソファに腰を下ろし、手紙の冒頭から目を滑らせた。亡き祖父の話、昔住んでいた校舎の桜並木の話──そして途中から、幼い美咲の記憶へと話題が移っていた。
> あなたが五歳のとき、坂道で転んで膝をすりむきましたね。泣きながらも「もう一回!」と立ち上がった姿を思い出します。あの強さがあれば、どこでもやっていけますよ。
一節読み進めるごとに、半ば忘れかけていた情景が脳裏に鮮やかに蘇る。夕焼けの坂道、祖母の手の温もり、絆創膏に描かれた小さなうさぎのイラスト──。
ページをめくる指先が震えた。これは単なる症状の現れではない。花子は“今”を見失いながらも、大切な思い出の断片だけを拾い集め、美咲に手渡しているのだ。
時計は日付を跨ぎ、部屋は静寂に包まれていた。美咲は机に向かい、白い便箋を取り出した。ペンを握るのは久しぶりで、インクが紙に染み込む感触が妙に心地よい。
> おばあちゃんへ
今日、あなたの手紙をゆっくり読み返しました。私が転んで泣いた坂道のことを覚えてくれていて、なんだか嬉しかった──。
書き出した瞬間、胸の奥が熱くなり言葉があふれ出す。外では夜風が窓を揺らし、桜の花びらが一枚、ベランダに舞い込んできた。
翌朝、ポストに投函した封筒は薄水色。祖母が好む色だ。
会社へ向かう電車の中、美咲は小さく息を吐く。忙しさに押し流される日々の中で、自分が大切な何かから目を背けていたことにようやく気づいたのだ。
その日の夕刻、花子はいつものように小さな机に向かっていた。窓辺に置かれた鉢植えのパンジー越しに差し込む光が、震える指先と便箋を淡く染める。
「さて、今日は何を伝えようかしらね」
静かな独り言とともに、花子はペン先を紙に置いた。──その瞬間、郵便受けから取り出した美咲の手紙が胸元でかすかに重みを主張し、花子の頬に温かな微笑みを灯した。
母も娘もまだ気づいていない。けれど、この一通が長い往復書簡の扉を開くことになる。認知症という霧の向こう側で、記憶と愛情が交差する旅が、今静かに始まったのだった。