「また来てる……」
マンションの郵便受けを開けた美咲は、思わず小さく息を吐いた。
淡い桃色の封筒。可愛らしい花模様の便箋。差出人は、祖母・花子。
昨日も、その前の日も、まるで日課のように届いている手紙だった。
エレベーターの中で封を切る。ふわりと、少し古びた便箋の匂いが鼻をくすぐる。
今日の手紙には、こう書かれていた。
> 美咲ちゃんへ
昨日は元気そうなお顔が見られてうれしかったです。
おばあちゃんは、あのクッキー、また一緒に作りたいなあって思ってます。
おじいちゃんも楽しみにしてるって言ってましたよ。
あのころ、美咲ちゃんが転んで泣いちゃった時、すぐに立ち上がって「もう泣かない!」って言ったの、覚えてますか?
あれは、おばあちゃんの誇りの瞬間でした。
またお手紙書きますね。
おばあちゃんより
「……昨日は、会ってないけど……」
部屋に戻り、ジャケットを脱いだ美咲は、キッチンの電気ポットに手を伸ばした。
お湯が沸くまでの間、ダイニングテーブルの上に手紙を置き、ぼんやりと見つめる。
その文字は、丁寧に書かれているものの、よく見るとところどころ震えていた。
そして、「おじいちゃんが楽しみにしている」という一文が、胸に小さく棘のように刺さった。
おじいちゃんは、もう……十年前に亡くなっている。
コーヒーを淹れて、窓辺に腰掛ける。アパートの前の通りには、朝の光を反射する車が流れていく。
目の前の手紙を見ながら、美咲はスマートフォンを手に取り、母・恵子にLINEを送った。
美咲:
「またおばあちゃんから手紙がきた。昨日会ってないのに“会えて嬉しかった”って書いてる……」
恵子(返信):
「最近、毎朝書いてるのよ。たぶん、時間の感覚が少しずれてきてるんだと思う」
美咲:
「なんか、おじいちゃんのことも“元気にしてる”って書いてた」
恵子(返信):
「それもあるの。最近よく“お父さんと話した”とか言っててね……。でも手紙を書くの、やめさせられないのよ。書くことで落ち着いてるし、習慣になってるから」
美咲:
「読むたびに、ちょっとしんどくなる」
恵子(既読)
返事はしばらくなかった。
美咲はカップを両手で包みながら、手紙の最後の一行を指でなぞった。
「またお手紙書きますね」──
以前、祖母の家に泊まった時、花子が朝の光が差し込む窓際の机で、万年筆を持って何かを書いていたのを思い出す。
「お手紙っていうのはね、自分の気持ちを誰かに贈る“こころの贈り物”なんだよ」と笑っていた祖母の言葉。
あのころの文字はまっすぐで、凛としていた。
「……なんで、そんなこと、まだ覚えてるんだろ」
泣いて転んだ美咲を、祖母が抱きしめてくれたあの日のこと。
すっかり忘れていたのに、花子はまるで昨日のことのように書いてくる。
忘れていたのは、きっと、自分の方だ。
スマホのアラームが鳴り、はっと我に返る。出社の時間が迫っていた。
立ち上がると、美咲は手紙をそっと鞄にしまった。
その日、通勤電車の中、美咲は久しぶりにスマホを見ずに過ごした。
揺れる車内で、祖母の文字が頭の中に浮かんでくる。
「あのころ、美咲ちゃんが転んで……」
ふと、美咲は思う。
今週末、会いに行ってみようかな。