休日の午後。
美咲は、久しぶりに祖母・花子の家を訪れていた。古びた引き戸を開けると、微かに畳と線香の香りが鼻をくすぐる。
「まあ、美咲ちゃん!よく来たねぇ」
花子が笑顔で出迎えてくれた。頬に少し皺が増えた気がするけれど、その声は昔と変わらず、柔らかく、美咲の心を包み込む。
「今日は、おばあちゃんの好きなロールケーキ持ってきたよ」
「うれしいわぁ。美咲ちゃんが選んでくれたのなら、なんでもごちそうよ」
二人でちゃぶ台に座り、お茶をすすりながら、取り留めのない会話が続いた。
その傍らには、小さな文机。花子が毎朝手紙を書くというその場所には、万年筆と色とりどりの便箋が几帳面に並んでいた。
ふと、美咲が尋ねた。
「ねえ、おばあちゃん。最近、毎日わたしに手紙くれるでしょ?」
「そうね。毎朝書いてるの。だって、美咲ちゃんに伝えたいことが、たくさんあるんですもの」
「覚えてる?前に書いてくれた手紙で、“クッキーを一緒に作った”って」
「ええ、もちろん覚えてるわよ。あれはね、美咲ちゃんが幼稚園の年長さんのとき。バターが溶けなくてねぇ、台所中、粉まみれにしたっけ」
花子の目が、ふっと遠くを見つめるように細められる。
「……覚えてないと思ってた。わたしのほうが、すっかり忘れてたのに」
「そう?でもおばあちゃん、忘れてないわよ。大事なことは、ちゃんと残ってるの。心の奥の引き出しにね」
美咲は不意に胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
それから数日、美咲はこれまでに届いた祖母の手紙を机に並べ、一通ずつ読み返してみることにした。
どれも、似たような内容ばかりだと思っていた。けれど――
「この文章……あれ?」
ある手紙の一節に、見覚えのない名前があった。
> 今日ね、教え子の雄大くんの夢を見ました。
あの子は、算数が苦手だったけど、作文はとても上手でね。卒業式の日に「先生、ぼく、お母さんに手紙書けたよ」って、笑った顔が忘れられないの。
「雄大くん……?」
美咲は祖母の教員時代のことを、実はほとんど知らない。
けれど、その言葉の端々から、花子がどれだけ子どもたちに愛情を注いできたのかが伝わってきた。
さらに別の手紙には、美咲が自転車に初めて乗れた日のことが細かく綴られていた。
> あの時、美咲ちゃんは何度も転んでね。肘をすりむいても「もう一回!」って言ったの。
あの勇気が、今のあなたに繋がってるのよ。
その記憶は、美咲の中でぼんやりしていた。痛かったことは覚えている。でも、そんな風に何度も挑戦していたことも、祖母がそばで見守っていたことも、忘れていた。
忘れていたのではなく、思い出そうともしなかった──
そう気づいたとき、美咲は胸の奥に、静かな痛みとあたたかさを同時に感じた。
手紙の山を見つめながら、美咲はふと、ある決意をする。
「……わたしも、おばあちゃんに返事、書いてみようかな」
返事の便箋を選ぶとき、美咲は自然と、祖母がよく使う花模様のデザインを手に取っていた。
その夜、美咲の手から、一本の手紙が生まれた。
震えるように始まったその文字は、次第に柔らかく、穏やかな調子になっていく。
> おばあちゃんへ
いつもお手紙、ありがとう。
クッキーの思い出、やっと思い出したよ。あの時、台所が粉だらけになったことも。
覚えていてくれて、ありがとう。
また今度、一緒に作ってくれる?
美咲より
便箋を封筒に入れながら、美咲は気づいていた。
これはただの「返事」じゃない。
祖母の愛情を、ようやく受け取ることができた証なのだ。