朝の光が、レースのカーテン越しに差し込む。
美咲はその日、いつもより早く目を覚ました。
前の晩、祖母に宛てた手紙を投函したあと、なぜだか眠りが浅かった。けれど、胸の内には静かな満足感が残っている。
いつも通りに支度を済ませ、出勤前のわずかな時間、美咲はキッチンの椅子に腰かけてコーヒーを飲みながら、ふと机の上の一角に目をやった。そこには、花子からの手紙を入れた白い箱が置かれている。
(おばあちゃん、今日も書いてるかな……)
あの手紙を書いて以来、美咲の心に少しずつ変化が生まれていた。
会社の休憩中には、祖母の言葉を思い出して自然と微笑んでしまうようになり、週末になると「今度は何の話を聞こう」と楽しみにさえなるようになっていた。
そして、手紙のやりとりは、次第に“日課”から“対話”へと変わっていった。
「今日は美咲ちゃんからの手紙、楽しみにしてたのよ」
そう言って花子は、受け取った封筒を丁寧に開け、ゆっくりと目を通した。
文字をたどるように読みながら、時折くすっと笑ったり、頷いたりしている。
「あなたの字、先生してた頃に見ていた作文の文字みたい。どこか似てるわね」
「ほんと?あんまり自信ないんだけど……でも、おばあちゃんが喜んでくれるから、続けようかなって思ってる」
「うれしいわぁ。……あのね、美咲ちゃん」
「うん?」
「おばあちゃんね、最近少しずつ、いろんなことがうまく思い出せなくなってきてるの。冷蔵庫の場所を忘れちゃったり、お味噌汁にお砂糖を入れちゃったりね。自分でもちょっと不思議な気持ちなの」
花子は、少し笑ってそう言ったが、美咲は言葉に詰まった。
「大丈夫」だとも、「頑張って」だとも言えなかった。
ただ、そっと花子の手に自分の手を重ねた。
「……うん。でも、忘れてもいいよ。わたしが覚えてるから」
その言葉に、花子ははにかむような笑みを浮かべた。
それから数週間、美咲は手紙を定期的に書き続けた。
やりとりは少しずつ深まり、花子の手紙には、かつて担任をしていた生徒たちの話や、母・恵子が小学生だった頃のエピソードも織り込まれるようになっていた。
だが、ある日届いた手紙を読んで、美咲は胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。
便箋には、いつもより震えた文字が並んでいた。
その中には、意味がつながらない一文や、途中で筆が止まったような箇所もあった。
> 今日は……あの子が来てくれたような気がします。
名前が……ええと……あの、ほら、あの……。
ごめんなさいね。ちゃんと書きたかったのに。
思わず、美咲は机の端をぎゅっと握った。
(名前……私のこと、忘れかけてる?)
でも、次の文を読んで、涙が静かに頬を伝った。
> でも、声を聞いて、うれしくなりました。
あなたが誰でも、私はうれしかった。
きっと、大切な人なんでしょう。
……ありがとう。いつもありがとうね。
美咲は手紙を胸に抱えたまま、しばらく動けなかった。
名前を忘れても、言葉がつながらなくても、祖母の中に「愛」は、確かに生きている。
そう感じた瞬間だった。
その夜、美咲は祖母にこんな返事を書いた。
> おばあちゃんへ
おばあちゃんが誰かわからなくなっても、わたしはおばあちゃんのこと、ちゃんとわかるよ。
名前を忘れても、気持ちは伝わってるから。
だから、これからも手紙、続けてね。
わたしも書き続けるから。
大好きなおばあちゃんへ
美咲より
祖母の記憶は少しずつ薄れていくかもしれない。
けれど、手紙のやりとりは、二人の間に確かな「今」を刻み続けていた。
そして美咲は、手紙を書くたびに、ただ“孫”としてではなく、一人の人間として、祖母とつながっているのだと実感していく。