風が冷たくなり、秋の終わりを告げるような空気が街を包み込んでいた。
美咲は駅から少し離れた介護施設の前で、深く息を吸い込んだ。
祖母・花子が入所することになったのは、医師やケアマネージャーとの相談の結果だった。
最近では、昼夜の区別がつかなくなり、火をつけたままコンロの前を離れてしまうことも増えた。
母・恵子の疲れも限界に近づいていた。
施設での生活が始まることは、誰にとっても苦渋の選択だった。
引っ越し当日、美咲は母と共に、花子の家の片付けに向かった。
「……ここ、しばらく来てなかったね」
美咲がそうつぶやくと、恵子は黙って頷いた。
埃の積もった窓辺には、色あせたカーテンが揺れている。
花子の部屋に入ると、そこにはいつもと変わらない光景が広がっていた。
小さな机の上には、使い込まれた万年筆と便箋の束。
引き出しの中には、丁寧に並べられた封筒と切手。
そしてその奥、美咲はふと、手紙の束にまぎれて一枚の未完の手紙を見つけた。
破れかけた便箋に書かれていたのは、震えた字で綴られた言葉だった。
> 美咲ちゃんへ
おばあちゃんは、もうすぐあなたの顔を忘れてしまうかもしれません。
でも、あなたを愛している気持ちは、絶対に忘れません。
愛は記憶よりも深いところにあるのです。
おばあちゃんが教師として学んだことは、
愛は形を変えても永遠に続く、ということです。
この手紙たちが、私の愛の証です。
あなたが困った時、悲しい時、
このお手紙を読んでください。
おばあちゃんの愛が、いつもあなたを支えています。
字が書けなくなっても、
おばあちゃんの愛は……続いています……
あなたの幸せを、
いつも、いつも祈っています。
最後の行には、インクがかすれていた。
涙がにじんだのか、それとも手が震えていたのか、文字は途中で止まり、ページの端には小さなインクのしみがひとつだけ残されていた。
「……おばあちゃん」
美咲は唇を噛みしめ、そっと便箋を胸に抱いた。
祖母は、言葉が綴れなくなってもなお、最後まで愛を伝えようとしてくれていた。
数日後、美咲は祖母のいる施設を訪ねた。
窓際の椅子に座っていた花子は、美咲の姿を見ると、少し首をかしげた。
「……あなたは、どなた?」
その問いに、美咲は少し笑って答えた。
「美咲だよ。おばあちゃんに手紙を読みに来たの」
「……手紙?」
「うん。おばあちゃんが、ずっと送ってくれた手紙。今度はわたしが読む番だと思って」
そう言って、美咲は白い封筒を取り出した。
中には、かつて祖母が書いた思い出の手紙と、美咲が新しく綴った返事が入っている。
便箋を開いて、声に出して読み始めると、花子は少し目を細めて、美咲の声に耳を澄ませた。
そして時折、ふっと穏やかな笑みを浮かべる。
言葉はもう届いていないのかもしれない。
でも、声の響きや、想いのぬくもりは、花子の中に確かに届いているようだった。
「……ありがとうね。きれいな声ねえ」
かすかな声でそうつぶやいた花子に、美咲はそっと微笑んだ。
「うん。また来るから。今度は、新しい手紙、持ってくるね」
そしてその日から、美咲は毎週、祖母に手紙を届けるようになった。
それは過去を思い出すためのものではなく、「今」を共有し続けるための、小さな橋だった。