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第5話  最後の贈り物

風が冷たくなり、秋の終わりを告げるような空気が街を包み込んでいた。


美咲は駅から少し離れた介護施設の前で、深く息を吸い込んだ。

祖母・花子が入所することになったのは、医師やケアマネージャーとの相談の結果だった。


最近では、昼夜の区別がつかなくなり、火をつけたままコンロの前を離れてしまうことも増えた。

母・恵子の疲れも限界に近づいていた。

施設での生活が始まることは、誰にとっても苦渋の選択だった。


引っ越し当日、美咲は母と共に、花子の家の片付けに向かった。


「……ここ、しばらく来てなかったね」


美咲がそうつぶやくと、恵子は黙って頷いた。

埃の積もった窓辺には、色あせたカーテンが揺れている。


花子の部屋に入ると、そこにはいつもと変わらない光景が広がっていた。

小さな机の上には、使い込まれた万年筆と便箋の束。

引き出しの中には、丁寧に並べられた封筒と切手。

そしてその奥、美咲はふと、手紙の束にまぎれて一枚の未完の手紙を見つけた。


破れかけた便箋に書かれていたのは、震えた字で綴られた言葉だった。




> 美咲ちゃんへ

おばあちゃんは、もうすぐあなたの顔を忘れてしまうかもしれません。

でも、あなたを愛している気持ちは、絶対に忘れません。


愛は記憶よりも深いところにあるのです。

おばあちゃんが教師として学んだことは、

愛は形を変えても永遠に続く、ということです。


この手紙たちが、私の愛の証です。


あなたが困った時、悲しい時、

このお手紙を読んでください。


おばあちゃんの愛が、いつもあなたを支えています。


字が書けなくなっても、

おばあちゃんの愛は……続いています……


あなたの幸せを、

いつも、いつも祈っています。






最後の行には、インクがかすれていた。

涙がにじんだのか、それとも手が震えていたのか、文字は途中で止まり、ページの端には小さなインクのしみがひとつだけ残されていた。


「……おばあちゃん」


美咲は唇を噛みしめ、そっと便箋を胸に抱いた。

祖母は、言葉が綴れなくなってもなお、最後まで愛を伝えようとしてくれていた。





数日後、美咲は祖母のいる施設を訪ねた。


窓際の椅子に座っていた花子は、美咲の姿を見ると、少し首をかしげた。


「……あなたは、どなた?」


その問いに、美咲は少し笑って答えた。


「美咲だよ。おばあちゃんに手紙を読みに来たの」


「……手紙?」


「うん。おばあちゃんが、ずっと送ってくれた手紙。今度はわたしが読む番だと思って」


そう言って、美咲は白い封筒を取り出した。

中には、かつて祖母が書いた思い出の手紙と、美咲が新しく綴った返事が入っている。


便箋を開いて、声に出して読み始めると、花子は少し目を細めて、美咲の声に耳を澄ませた。

そして時折、ふっと穏やかな笑みを浮かべる。


言葉はもう届いていないのかもしれない。

でも、声の響きや、想いのぬくもりは、花子の中に確かに届いているようだった。


「……ありがとうね。きれいな声ねえ」


かすかな声でそうつぶやいた花子に、美咲はそっと微笑んだ。


「うん。また来るから。今度は、新しい手紙、持ってくるね」


そしてその日から、美咲は毎週、祖母に手紙を届けるようになった。

それは過去を思い出すためのものではなく、「今」を共有し続けるための、小さな橋だった。


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