深侑がレアエルの教育係として働き始めてから、約一週間が経とうとしていた。
初日には異世界の話で盛り上がり和やかな雰囲気だったのが嘘のように、あの日からレアエルは最悪の機嫌だった。
「こんなことやりたくない!」
レアエルが机の上にあるものを床に落とすと、パラパラと紙の音が響いた。深侑は溜息を飲み込みながら、床に散らばった教科書やノートを拾い集める。そんな深侑の姿をじっと見ているレアエルの視線がつむじに突き刺さって仕方がない。
「殿下、せめて理由を教えてもらえませんか?」
「理由なんてない! やりたくないものはやりたくないんだ!」
「分かりました。それでは今日の授業は――」
「先生も僕のこと、面倒くさいと思ってるだろ? どうせみんな同じ! 僕のことなんて誰も理解してくれない!」
レアエルの言葉に込められた深い絶望感に、深侑は胸が痛んだ。一週間前にレインから贈り物が届いてからずっとレアエルは不機嫌なので、絶妙なタイミングで贈り物をしてくれたものだなと嫌味の一つでも言いたくなったが、レインとレアエルの関係を少し知ってしまったのでレインに文句も言えない。
深侑は疲労とストレスのせいで胃に穴が開きそうな気配がした。
「面倒くさいなんて思っていませんよ」
「嘘つき! みんなそう言って辞めていくじゃないか!」
レアエルが窓に向かって背を向けると、その小さな肩が震えているのが見えた。12歳の少年が抱えるには重すぎる孤独感が、部屋全体を支配している。
「殿下……」
深侑が近づこうとすると、レアエルは振り返った。その目には涙が浮かんでいて、この世のあらゆる出来事に絶望しているような、そんな色を宿していた。
「今日はもう勉強したくない。帰って」
「……分かりました。でも、明日も来ますから」
「来なくていい」
「来ます」
「来るなって言ってるでしょ!」
レアエルが声を荒げ、深侑に向かって教科書やペンを投げつける。あまりに突然のことで避けるのも忘れてしまった深侑の横を通り過ぎた教科書たちは、後ろの壁に当たって床に落ちた。深侑が避けなかったことにレアエルは驚いたように目を見開き「だいじょ――」と言いかけたが、怒っていた手前バツが悪いのかふいっと顔を逸らした。
「……では、また来ますね。今日はちゃんと食事をとって、ゆっくりお休みください」
深侑は背を向けているレアエルに頭を下げ、部屋を後にした。
外に出ると、空はどんよりと曇っていた。深侑の心情を表しているような、今にも雨が降り出しそうな重い雲が空を覆っている。
「はあ……」
レアエルの前では我慢していたが、あまりよくない天気も相まって深侑が大きなため息をついた時、ぽつりと雨粒が頬に当たった。見上げると、灰色の雲から雨が降り始めていた。
「うわ、降ってきた」
深侑は急いで公爵家の馬車に乗り込もうと足を速めたが、雨はみるみるうちに激しくなった。このままでは濡れ鼠になってしまう。
「一旦雨が弱まるのを待つか……」
仕方なく、離れの軒下で雨宿りをすることにした。幸い、離れの外側にある軒下は雨がかからないので、雨が弱まるでの間に教科書の復習でもしようかと鞄から一冊取り出した。
「どうしたら、あの子の心を開けるんだろう……」
教科書に書かれている文章を目で追ってはいるけれど、内容は全く頭に入ってこない。深侑の頭の中を占めているのはレアエルのことで、どうやったら彼が心を開いてくれるのかと自問自答するばかり。レアエルのことを考えながら深侑が独り言を呟いた時、軒下の隅で小さな鳴き声が聞こえた。
「ん?」
深侑が声のする方を見ると、見覚えのある真っ黒な毛色のポメラニアンが震えながら縮こまっていた。雨に濡れてぺちゃんこになった毛が痛々しい。
「えっ、アルト!?」
深侑が近づくと、アルトは深侑を見上げて小さく「くぅん」と鳴いた。その鳴き声は、まるで「助けて」と言っているように見えた。周りをきょろきょろ見回してみても、アルトの飼い主であるエヴァルトの姿も公爵家の使用人の姿もなかった。
「どうしてこんなところに? 小公爵様は?」
深侑がそう聞くと、アルトは悲しそうにふわふわの耳を垂らした。まるで深侑の言葉を理解しているような反応に、深侑は改めてこの犬の賢さに驚く。
「ひとりぼっちなのか? 濡れてるし、寒いだろ?」
深侑が優しく声をかけると、アルトはこくりと頷いたように見えた。その仕草があまりにも人間らしくて、深侑は思わず苦笑した。
「本当に変わった犬だな……まるで人の言葉が分かっているみたいだ」
深侑は迷わずアルトを抱き上げた。小さな体は冷たく濡れていて、震えが止まらない。
「このままじゃ風邪を引いてしまうな……とりあえず、公爵家に帰ろうか」
深侑がそう提案すると、アルトは深侑を見つめて小さく鳴いた。今度は「お願いします」と言っているような、懇願するような鳴き声だった。
「分かった。一緒に帰ろう」
深侑の腕の中で、アルトは安心したように体を委ねた。その時、深侑は不思議な感覚を覚えた。この犬は、ただの犬ではないような気がする。人間のような知性を感じるのだ。
「君、本当に犬なのか?」
深侑が冗談めかして聞くと、アルトは困ったような表情を見せた。その表情があまりにも人間らしくて、飼い主とそっくりだなと深侑は思わず笑ってしまった。
「本当に小公爵様とそっくりだな、君は」
雨の中を走りながら、深侑は腕の中の小さな命を守るように抱きしめる。少しでもアルトが雨に濡れないように自分の服で覆っていたのだけれど、馬車に着く頃には深侑もアルトもずぶ濡れになっていた。
「ミユ様、ずぶ濡れじゃないですか……!」
「帰りに雨に降られてしまって……入浴できますかね?」
「すぐにご準備いたします!」
レイモンド公爵家に到着すると、ずぶ濡れの深侑を見たイヴが慌てて入浴の準備をしに行ってくれた。その間に深侑はアルトを抱えたまま自室に戻り、タオルを取り出して軽くアルトの体を拭いてあげた。
「イヴがお風呂の準備をしてくれてるから、一緒に入ろうな」
深侑が優しく毛を拭いてあげると、アルトは深侑を見上げて「くぅ……」と小さな鳴き声をあげる。その顔からは何となく感謝を伝えられているように聞こえて、深侑はアルトの頭を優しく撫でた。
「アルトに何かあったら、小公爵様がきっと悲しむからね。もう一人であんなところまで来たらダメだよ? 分かった?」
小さな鼻に指先を当てながら指導すると、アルトの元気な鳴き声が深侑の部屋に響いた。