「先生、本当にすみません。こうならないように最近は気をつけていたんですけど……」
「もしかして、俺がこの屋敷にきた日に会ったのも、小公爵様ですか……?」
「はい。あの時はちょっと……アルトになったのが久しぶりだったので、戻らなかったらどうしようかと肝が冷えました」
「ベイジルさんが連れていきましたよね。じゃあ、ベイジルさんに甘やかしてもらったってことです?」
「まさか、冗談言わないでください。あの時も先生のおかげで元に戻ったんですよ」
公爵邸に来た日の夜に出会ったアルトとは少し会話をしただけだったが、エヴァルトはそのおかげであの後すぐに戻ったのだと話した。起き抜けの頭では情報量が多すぎて全てを処理しきれないのだが、エヴァルトとアルトが同一人物なのはこの際もう理解することにした。思い返せばベイジルの様子がとてもおかしかったので、彼はきっとアルトがエヴァルトだと知っていたのだろう。
「ベイジルさんはアルトの正体を?」
「ええ、知っています。屋敷の中ではベイジルとジェーンが。両親は時々現れる犬は私の飼い犬だと思っていますね」
「よく一年隠し通せましたね……」
「それが一種の、私のストレスの原因でもあります」
「え?」
「公爵家の跡取りとして、騎士団の指導者として、常に完璧でいなければならない立場なんです。だからこの一年、あまり隙が出ないように気を張っていました。でもここ連日は会議が長引いて、魔物対策で夜遅くまで働き……疲れ果てて、気がついたら犬の姿になってしまっていたんです。そこで雨に降られ先生に助けていただいた、というわけです」
エヴァルトの説明を聞いて、深侑は複雑な心境になった。確かに、彼の立場を考えれば相当なプレッシャーがあるだろう。22歳という若さで公爵家を背負い、騎士団を率いて魔物と戦い、さらには聖女召喚にも関わっている。そしてポメラニアンになるというヘンテコな体質まで抱えているなんて。
「でも……俺が本物の犬だと勘違いしていたのを分かってたでしょう? 黙っているなんてひどいです……」
「それについては、はい……すみませんとしか言いようがないですね」
ぷくっと頬を膨らませる深侑にエヴァルトは苦笑して、どこか照れたように頭を掻いた。
「先生が、私のことを可愛いとか癒されるとか言っている姿を見ると、可愛い先生の顔をもっと見ていたかったんです」
「なんですか、それ」
「私を抱いたり撫でる先生の手が非常に心地よくて、犬の間は独り占めできるのかな、と」
「へ……?」
エヴァルトは深侑に向かって這うように近づいてきた。その動きは昨夜のアルトのように四つん這いで、しかし人間の姿でそれをやられると妙に色気があって、深侑はどぎまぎしてしまう。そして深侑の背中がトンっとヘッドボードにぶつかると、エヴァルトの両腕が壁について囚われてしまった。
「先生といる時間がもったいなくて、わざと朝まで戻らずにいました。先生の優しい手に撫でられて、温かい腕に抱かれて……あんなに幸せな時間は初めてでしたよ」
いつものエヴァルトとは明らかに雰囲気が違う。声のトーンも低くて、どこか甘い響きがある。深侑の心臓はドキドキと激しく鳴り始めると同時に、なんだか息苦しくなってきた。
エヴァルトの率直な告白と、いつもと違う妖艶な雰囲気に、深侑は胸がきゅっと締め付けられると確かに、彼の立場なら誰もが期待と尊敬の眼差しで見るだろう。でも――
「しょ、小公爵、さま……?」
「どうしました?」
「な、なんだか、とても近い、です」
「はは、そうですね」
エヴァルトはくすくすと笑い、深侑の頬に指先を這わせる。先ほどキスをされたときはあまり感じなかったけれど、エヴァルドの指がものすごく熱く感じて、触れられたところが火傷してしまうかと思うほどだった。
「実は、普段は“小公爵様”として完璧に振る舞っているだけで……本当はもう少し、欲深い人間なんですよ」
熱い指先がくいっと深侑の顎を持ち上げると、ダークグリーンの瞳と目が合う。吸い込まれそうなほど深い色をしている彼の瞳に釘付けで、深侑の心臓はドキドキと暴れ狂ったまま彼から目を逸らすことができなかった。
出会ってからまだ日が浅いけれど、今まで深侑が見ていたエヴァルトは最初こそ胡散臭さを感じたが基本的には紳士的で上品な『小公爵様』だだったのに。今、深侑の目の前にいる『男』はどこか危険な香りがして、これ以上近づいたら逃げられないような、そんな感覚に襲われた。
「す、すみません、卑怯でしたね……なにも知らない先生を騙すような形になって……」
そう言って眉を下げるエヴァルトの顔を見てやっと安心した。やはり、何だかんだ言ってもエヴァルトは優しい人なのだなと深侑はホッと胸を撫で下ろした。
「……なんて、言うつもりはありません。
「確かな意思……?」
「先生に甘えたくて、先生に触れていたくて……だから、わざとアルトの姿のまま、もう一度あなたの前に現れました」
ぎらり、エヴァルトの瞳が怪しく光った。その瞳に深侑は危機感を覚え、頭の中で警報が鳴り響く。このままだとまずいと思いベッドから降りようとしたが、エヴァルトに手首を掴まれて動けなくなった。
「え、ちょ、小公爵様……!」
「先生」
エヴァルトの低い声が名前を呼び、耳から直接流れ込んでくる。いつもの丁寧な口調ではなく、もっと親密で、甘い響きだった。
「私を元に戻せるのは、先生だけなんです」
「そ、そんなこと言われても……!」
「私がストレスを溜めないように、甘やかしてもらわないと……いざという時、先生のことも聖女様のことも守れません」
エヴァルトが深侑の手を取って、自分の頬に当てる。その仕草はまるで昨夜のアルトが深侑の手に顔を擦り寄せていたのと同じで、深侑は混乱した。
「小公爵様……あの、これは……」
「アルトにしたように、私を撫でてください。先生の手が一番落ち着くんです」
深侑が戸惑いながらもエヴァルトの頬を撫でると、エヴァルトは気持ちよさそうに目を細めた。その表情も完全にアルトのそれで、人間の姿なのに犬のような仕草をするエヴァルトに、深侑の心臓は跳ね上がった。
自分のほうが年上なのに今のエヴァルトの妖艶な雰囲気に気圧されて、どぎまぎするばかりで深侑は少しも余裕がない。そんな深侑の気持ちを知ってか知らずかエヴァルトは満足そうに微笑むと、深侑の手を自分の唇に引き寄せて軽くキスをした。
「ありがとうございます……先生」
その仕草があまりにも色っぽくて、深侑は顔が真っ赤になった。いつもの上品で紳士的なエヴァルトはどこに行ってしまったのだろう。
「あ、あの……小公爵様、もう、俺……心臓が痛く、て……っ」
「……ふ、可愛いですね、先生」
エヴァルトの艶やかな笑みに、深侑は心臓が止まりそうになった。
二人の間に流れるのは優しい沈黙ではなく、どこか危険で甘い空気。深侑は自分が思っていた以上に、エヴァルトという男性について何も知らなかったのだと痛感した。