深侑が真っ赤になってどぎまぎしている様子を見て、エヴァルトは愉快そうに微笑んだ。
「ところで先生、ご相談があるんですが」
「相談、ですか? また何か、レアエル殿下のことを頼んだ時のような嫌な予感がするんですが……」
「話が早くて助かります。相談というのは先生に“マスター”になっていただきたくて」
「マスター……?」
エヴァルトは深侑の手首を掴んでいた手をするりと絡めてきて、もう片方の手で深侑の髪をそっと撫でる。
「不意にポメラニアンになってしまう私にとって特別な存在のことです。マスターに触れられると、すぐに人間に戻ることができるんです」
「それは……」
「通常は人に撫でられたり甘やかされたりすることで人間に戻りますが、マスターの場合は特別で……触れられただけで即座に戻れるんですよ」
「その……マスターって、どうやって決まるんですか?」
「簡単に言えば相性です。ポメガとマスターは互いに惹かれ合うらしくて、自然と分かるものなんですよ」
エヴァルトの視線が深侑の唇に向けられ、深侑は無意識に唇を舐めてしまった。その仕草を見たエヴァルトの瞳が、より一層熱を帯びる。彼の甘い誘いに、このままでは乗ってしまう気がした。
「初めて“アルト”の姿で先生と会った時に、私のマスターだと思ったんです」
「あ、相性なら、俺にはそんなこと分からないです」
「私が分かっているから、大丈夫ですよ。昨夜も、先生に撫でられただけですぐに人間に戻れそうになったんです。まぁ、戻るのを無理やり抑え込みましたけど」
「で、でも! そんなこと勝手に決められても……」
「では、申し込みませす。私のマスターになってください、ミユ」
エヴァルトが真剣な眼差しで深侑を見つめ、呼び名が『先生』から『ミユ』変わったことに単純な心臓はすぐに跳ねた。
「私には先生が必要なんです。この体質と上手く付き合っていくためにも……」
「小公爵様……」
「それに」
エヴァルトが深侑の耳元に唇を寄せる。吐息が耳たぶにかかって、深侑の体がびくりと震えた。
「私は先生のことが、とても気に入っているんです。召喚の儀式の時はただの好奇心でしたけど」
「き、気に入ってるって……」
「優しくて、真面目で、可愛くて……そして、とても美味しそうで」
「美味しそうって何ですか!」
深侑が慌てて抗議すると、エヴァルトはくすくすと笑う。彼は本当にアルトになることを困っているのかと疑うほど余裕たっぷりで、どう見ても人にものを頼む態度ではなかった。
「冗談ですよ。でも、先生は本当に魅力的です」
「そんな……俺なんて普通の教師で、聖女様のおまけですし……」
「普通?」
深侑の言葉にエヴァルトが『本当に意味が分からない』というように首を傾げ、苦笑した。
「聖女様を身を挺して守ろうとした先生が? レアエル殿下の心を開かせた先生が? 私を人間に戻してくれた先生が?」
「それは……」
「どこが普通なんでしょうか」
エヴァルトの言葉に、深侑は返す言葉がなかった。確かに異世界に来てから色々なことがあったが、それは状況がそうさせただけで、深侑自身は何も特別なことをしていないのだ。
「先生、お願いします」
エヴァルトが深侑の手を両手で包み込む。彼の真剣な表情に、深侑は胸が締め付けられた。先ほどまでどこか飄々としていたエヴァルトだけれど、この一年、誰にも頼ることができずに一人でこの体質と向き合ってきたのだろう。そして今、やっと現れた深侑に必死に縋ろうとしているのだ。
「でも、俺には何をすればいいのか分からないし……」
「難しいことは何もありません。ただ、私がアルトにならないように甘やかしてください。もしもアルトになった時は、抱きしめてくれたらいいんです」
「それだけ……?」
「はい。それだけで、私は救われます」
エヴァルトの言葉に嘘はないように見えた。アルトになった時に甘やかして人間に戻すのはいいとして、アルトにならないために甘やかすとはどういうことだろう?
そんな疑問が頭をよぎったが、昨日雨に濡れながら深侑を見上げていたアルトの瞳を思い出せる顔でエヴァルトが見つめていて、今はないポメラニアンの耳と尻尾がしゅんっと垂れているような幻覚が見えた。
「……分かりました」
「先生……!」
「俺で良ければ、やってみます」
深侑の言葉に、エヴァルトの顔がぱあっと明るくなった。まるで昨夜のアルトが尻尾を振って喜んでいたのと同じような、純粋な喜びの表情だった。
男っぽい色気を纏った雰囲気だったかと思えば、子供のように嬉しそうに笑うものだから調子が狂う。昔から、頼られると断れない自分の性格を深侑は心の中で呪った。
「ありがとうございます、先生。これで少し肩の荷がおりました」
エヴァルトがぎゅうっと深侑を抱きしめる。その時、深侑は不思議な感覚を覚えた。まるで、心の奥深いところで何かが繋がったような、そんな感覚だった。
「先生、よければ贈り物をさせてください」
「贈り物?」
「あなたが私のものだという印です」
「んな……っ!」
――マスターになったはいいけれど、恋人同士になったわけじゃないよな!?
そう勘違いしてしまいそうになるエヴァルトの言動に深侑は再びドキマギして、顔を真っ赤にさせた。
「お揃いのブレスレットなんてどうでしょう? アルトになったときは首輪になるよう、魔法付与でもしておきます。
「……それができるなら、人間に戻った時に服を着ていられる魔法もかけていてください」
「ああ、確かに。そうしておきます」
本当に了承してよかったのか考えても言ってしまったものはもう取り返しがつかないのだけれど、エヴァルトの安堵した表情を見ていると、これで良かったのだと思えた。この異世界でお互いに支え合える相手がいるのは、深侑にとってもきっと悪いことではないだろう。
「それでは先生、これからよろしくお願いします」
エヴァルトが深侑の手にキスをする。彼の唇は指先と同じく、火傷してしまいそうなほどに熱を孕んでいた。