「――ミユ!」
上の空だった深侑は名前を呼ばれ、腕を叩かれてハッと我に返った。驚いた視線の先にいたのはレアエルで、何も反応がない深侑に「……僕のこと、嫌になった?」と不安そうな顔をして見上げていた。
「すみません、殿下……少し色々ありまして、考え事をしてました。殿下が悪いわけではございませんよ」
「本当に? この前、キツく当たり過ぎたから……」
そう言ってしゅんとするレアエルにくすりと笑みが溢れる。深侑に当たり散らしたあの雨の日のことを気にしているのか、翌日に深侑が離れを訪れた時は小さな声で謝罪してくれたものだ。
それ以来、レアエルは時々深侑の顔色を窺っては「嫌いになった?」と聞いてくるようになった。なんとなくだが、お互いの距離が近づいたなと深侑は嬉しく思っているところだ。
「そういえば、午後からはエヴァルトが来るって言ってたんだ」
「そ、そうなんですね」
「剣術の稽古だからミユも見ていってよ」
「俺がですか?」
「うん。今にエヴァルトより強くなってみせるぞ」
レアエルの口からエヴァルトの名前が飛び出すと、思わずどくんっと心臓が跳ねた。あれ以来エヴァルトと顔を合わせるとアルトと過ごしたあの夜や翌朝のことが思い出されて、顔に熱が集中してしまう。まともにエヴァルトの顔も見られないと思っていたのだが、深侑の気持ちとは裏腹に彼は忙しすぎて公爵邸で顔を合わせることはあまりなかったのだ。
だから、ここにいると久しぶりに彼と顔を合わせることになる。授業を終えたらさっさと帰ろうと思っていたのだがレアエルにお願いされては帰るわけにはいかず、深侑はレアエルと一緒にエヴァルトを待つことになった。
「遅れてすみません、殿下。ああ、それに……先生もまだいらっしゃったんですね」
「お疲れ様です、小公爵様。……お忙しそうですね」
「はい、それはもう……
深侑を見つめながらくすりと小さく笑うエヴァルトからパッと顔を逸らすが、瞬時に赤くなったのに気づかれたかもしれない。彼がわざわざ『ストレスが溜まっている』なんて言うものだから、それは暗に『甘やかしてもらわないといけない』と言っているようなものだ。
正直なところ、訳も分からずマスターになることを承諾したあの日から、エヴァルトとは触れ合っていない。でも彼があの朝のような触れ合いを望んでいるのなら、もしかすると今日あたり――なんて。
「ミユ! 今日はいつもよりボーッとしているな」
「す、すみません!」
「どうしたんですか、先生。お疲れですか?」
「考え事をしているらしい。内容は知らないけど」
「へぇ、考え事……」
――これだから子供は、素直に色々言いすぎる!
エヴァルトもエヴァルトで勘が鋭いのか「先生もストレスを溜めないようにしてくださいね」なんて言いながらにこりと笑うので、深侑は恥ずかしさに奥歯をギリッと噛み締めた。
「それで、先生。考え事とは?」
結局レアエルの剣術指導を最後まで見てしまい、今日は直帰するのだと言うエヴァルトと公爵邸へ帰ることになった。向かい合って乗っている馬車の中、居心地悪く縮こまって座っていた深侑の膝にコツンとエヴァルトのつま先が当たった。
「……色々です。殿下の教育方針とか、考えることはたくさんありますから」
「さすが先生。あなたのおかげで、レアエル殿下はこの短い期間で本当に変わったと思います」
「お役に立てているなら、幸いです……矢永さんも頑張っているので、俺も何かやらないとって思っていますから……」
「そうですか。では……」
エヴァルトが何か言いかけた途端、ガタンっと大きな音を立てて馬車が停車する。予想外の強い衝撃に襲われた深侑の体が浮いて、エヴァルトのほうに倒れ込んだ。
「す、すみません、小公爵様!」
「いえ。お怪我はありませんか、先生」
「大丈夫だと思います、すみません」
ハッと気がつくと、深侑はエヴァルトの膝に乗る体勢になっていた。エヴァルトは鍛えているのもあるからか涼しい顔をしていて、4歳も年上なのに体幹も何もあったものじゃないなと深侑は恥ずかしさにまた別の意味で顔が熱くなるのを感じた。
「ミユ」
エヴァルトの膝から降りようとしたのだが、ぐぐっと強い力が腰を押さえつける。驚いて顔を上げるとエヴァルトの顔がすぐ近くにあって、彼の吐息が深侑の唇に甘く触れた。
「食事と入浴を済ませたら、私の部屋に」
「へ……」
「マスターとしての初業務です。そのまま眠っても大丈夫なように、寝巻きで来てください」
「ひぁ……っ!」
耳元で低く囁かれ、身構えていなかった深侑は腰が砕けそうな感覚に襲われた。腰を撫でるエヴァルトの手つきが何だかおかしくて勝手に体が震えてしまう。人生で初めての経験と感覚に、深侑は頭がおかしくなりそうだった。
「……先生?」
「あ、やっ、動かないで、名前も呼ばないでください……!」
「なぜです? 理由を伺っても?」
「理由、って……!」
エヴァルトの膝の上で成す術もなく狼狽えていると、頭上に小さな笑い声が降ってくる。エヴァルトはこの状況を少なからず楽しんでいるようで、悔しくて彼を見上げてみると「ん?」と甘い声色と蕩けた視線が深侑を支配してしまった。
「む、むねが……」
「はい?」
「胸が壊れそうで、い、いやです……っ」
そうやって返事をするのが精一杯。これ以上ドキドキしたら心臓が壊れてしまうと涙目で訴えれば、エヴァルトは呆けた顔をした後に目を細めてぺろりと舌なめずりをした。
「純真なのかと思いましたけれど……“男”を知っているようですね?」
「え……?」
「今夜じっくり聞かせてください、先生」
「ええぇ……!?」
うっすら怒っているようにも見えるエヴァルトの笑顔に、深侑の背筋が凍り付いたのは言うまでもない。