公爵邸に帰ってからというものの、深侑は魂が抜けたかのように放心状態だった。今度は馬車の中での出来事が忘れられなくて、入浴中も体が火照りすぎて逆上せるかと思ったくらいだ。
そして、エヴァルトの言い付け通りに夕食と入浴を済ませた深侑は、自室の鏡の前に立って難しい顔をしていた。
「……なんで今日に限ってこんな寝巻きが……」
そこに用意されていたものを着たのだが、肌触りのいいシルクのような素材のガウンだったのだ。しかもガウン一枚だけで、他にインナーなどは用意されていない。素肌にこの薄い布を一枚だけ羽織るなんてと思ったけれど、エヴァルトが指示をしたらしいので着ないわけにもいかなかった。
悪あがきでぴっちりと前を閉じ、腰紐を硬く結んで露出を少なくしてから、深侑は早鐘のように脈打つ心臓をなんとか落ち着かせながらエヴァルトの部屋のドアをノックした。
「お待ちしてました、先生。どうぞ」
「お、お邪魔します……」
エヴァルトの部屋は深侑の隣だが、入ったのは初めてだ。大きいベッドが存在感を放っているが、書斎も兼ねているのか机の上には書類の束が積まれてある。帰ってきても忙しいのだなと思っていると、エヴァルトから手を引かれた。
「先生、こちらに」
「あ……は、はい」
深侑にはガウン一枚だけを身につけさせた張本人は薄手のシャツに簡素なズボンという出立ちだった。深侑だけがガウンのみ羽織っているのはあまり納得できないけれど、シャツの紐が緩んで露わになっている彼の胸元がセクシーに見えて顔を逸らした。
「似合っていますね」
「え?」
「ガウンです。先日街に出た時に見かけて……先生に似合いそうだなと思って購入していたんですよ」
「わ、わざわざ俺に買ったんですか!?」
「はい。ブレスレットの発注をしに行った時に」
「俺にこんな、高そうな贈り物はしないでください……身の丈に合いませんから……」
「私がやりたいと思ってやったことですから、気にしないでください」
エヴァルトはベッドに腰掛け、深侑はエヴァルトの手を握って立ったまま彼を見下ろした。空いている片手がガウンの上から背中を撫で、そのままゆっくりと下に伝っていく。びくっと体を震わせると、空気を含んだ小さい笑い声が静かな部屋に響いた。
「あ、あ、あの……!」
「はい?」
「こ、これはマスター業務、なんですよね!?」
「ええ、そうですよ。婚約者や親しい相手にするように、甘やかしてほしいんです。適度なスキンシップはストレスの軽減になりますから」
立ったままの深侑の胸元にエヴァルトは擦り寄り、挑発的な瞳が深侑を見上げた。
「先生は、こういうことをしたことは?」
「こんなこと、したことないです……っ」
「では、私の喜ばせ方を教えてあげますね」
「わっ!」
エヴァルトから腕を引かれると、深侑は簡単に彼の膝に乗ってしまう。まるで先ほどの馬車と同じような状況に恥ずかしさが込み上げてきたが、また腰をがっちり固定されて身動きは取れなかった。
「まず、私を甘やかすときは先生が膝の上に乗ってください」
「ぜ、絶対ですか……?」
「はい。絶対条件です」
そう言われては、受け入れるしかない。エヴァルトがアルトにならないようにマスターになることを引き受けたのだから、彼のストレスが少しでも軽減するように深侑が頑張らないといけないのだ。
エヴァルトの膝に座ったまま「分かりました」と呟くと、彼は満足そうに微笑む。アルトになって仕事ができないよりはいいのかなと思いつつ、これは絆されているだけではないか?と思う自分もいる。だが引き受けてしまったのは自分なので、出来る限りエヴァルトの要望を受け入れようと努力する姿勢を見せた。
「それから、どうしたら……?」
おずおずと深侑が質問すると、エヴァルトの瞳がギラリと光って色を変えたように見えた。驚いて身を引こうとしたけれど腰を押さえられているのでびくともしない。何か発言を間違えたかもしれないが、深侑にもう逃げ場はなかった。
「……それから、頭を撫でてください」
「えっ」
「アルトにしていたように。私をアルトだと思って撫でてもいいですよ」
ん、と頭を差し出される。アルトだと思ってもいいと言われても、実際エヴァルトがアルトなのだからどうしても意識してしまうのだ。ダークグリーンの瞳には期待の色が浮かんでいて、深侑は唇をきゅっと噛んで羞恥心に耐えながらエヴァルトの柔らかい髪の毛に手を差し込んだ。
「(お、お、俺のほうがなんか、羞恥プレイみたいなんですけど……っ!?)」
髪の毛を梳くように撫でてみると、エヴァルトは気持ちよさそうに目を閉じる。そんな彼の姿にとくんっと胸が高鳴ったのは、気のせいだと思いたい。
今の彼を見て『アルト』だと思うには程遠く、かと言ってアルトではないと言うのもまた違う気がした。アルトの時のエヴァルトも深侑が撫でると嬉しそうにしていて、その姿が重なる。
そして、いつもは完璧な小公爵として振る舞っているエヴァルトが、知り合って間もない深侑に対してこんなに無防備な姿を晒しているのは何だか特別感があった。深侑はエヴァルトにとって少しくらいは特別な人なのかと思うと、じわっと胸が熱くなるのだ。
「ミユ……」
また甘い声で名前を呼ばれたかと思えば、エヴァルトの鼻先がガウンの襟を押し開いていた。驚いた時には柔らかく滑らかな生地のガウンが片方滑り落ち、深侑の白い肌が露わになった。
「ちょ、しょ、小公爵様っ!?」
「ミユ、そのまま撫でていてください。今、すごく、癒されてますから」
「ふぁ……っ!」
撫でていてほしいと言われても、深侑は焦っていた。なんせエヴァルトの熱い唇が肌に触れ、口付けているのだ。むず痒い刺激がくすぐったくて、エヴァルトを撫でている手に思わず力が入る。すると彼がくすりと小さく笑い「……もっとして、ってことですか?」と意地悪く聞いてきたが、深侑は何のことか分からず首を捻った。
「もっと、って……?」
「ふ、可愛いですね。先生は男を狂わせるのがお上手だ」
「……?」
「……頼まれたからといって、他の人にこれを許しては駄目ですよ、先生」
「んっ」
チリっとした痛みが走って胸元を見ると、深侑の肌とエヴァルトの唇を繋げる銀糸が見えた。そしてシミひとつない白い肌には鬱血痕が浮かんでいて、いつの間に蚊に刺された?と思ったけれど、それがキスマークだと気づいたのはそれからたっぷり5秒後。エヴァルトがつけたものだと認識した途端、深侑は体中を真っ赤に染めた。
「なっ、そ、そんなの、本当にマスター業務の一環ですか!?」
「はい。先生を誰にも取られたくないので、定期的につけますね」
「ていきてきに!?」
「もちろん。消えそうになったらまた、ココにつけます」
先ほどつけたキスマークをエヴァルトが指先で撫で、軽く口付ける。そしてそのまま彼の顔が近づいてきて、深侑の唇の端にちゅうっとリップ音を立てて口付けた。
「……先生のおかげで、大分癒されました」
「い、いま……」
「私が癒され、満足したら今のように合図をします。そうしたら一緒に眠りましょうね、先生」
マスター業務で深侑が学んだことはひとつ。
主導権は常にエヴァルトにある、ということだった。