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第3章:マスターのお仕事


「ちょ、ちょっと待ってください! こんなところで駄目ですってば……っ」

「では、私が殿下の前で犬になってもいいと?」

「そういうわけじゃないですけど、でも……!」

「飼い主がしっかり管理してくれないと、私は各所に迷惑をかけてしまいます」


 離れのある空き部屋。人の目を盗んで空き部屋に連れ込まれた深侑は、公爵邸でしている時と同じようにエヴァルトの膝に乗せられマスター業務を強要されていた。


 鍵を閉めたかどうかも分からないこんな環境で、人に見つかったらどうするんだと抵抗してみたけれど『アルトになったら仕事ができず、各所に迷惑をかける』と捨てられた子犬のような目で見てくるものだから、最近はまんまと絆されてしまうのだ。


 本当にこんなところを人に見られたら、深侑ではなくエヴァルトのほうに影響が出るだろう。小公爵としての立場やレイモンド騎士団の指導者としての立場が危うくなりそうだが、彼にそれを伝えても「そうかもしれませんね」としか言わない。誰かに見つかっても責任は取らないからと深侑が言うと、エヴァルトはただ笑うだけだった。


「ミユ! どこ行ったんだ、ミユ!」

「っ!」


 レアエルが深侑を探している声がドアの外から聞こえてきて、深侑は自分の口元を手で覆った。別にやましいことをしているわけではないのだけれど、エヴァルトの膝に乗って彼の頭を撫でているところを見られたら人として何かを失う気がする。


 声も息も殺してレアエルが去るのを待っていると、口元を押さえている深侑の手をエヴァルトがかぷっと噛んできた。


「ひゃ……っ」

「ん? ミユの声が聞こえた気が……?」


 条件反射で声を出してしまい、レアエルが二人のいるドアの前で立ち止まったのが気配で分かる。心臓が壊れてしまいそうなほど脈打っていて、深侑はぎゅっと唇を噛んだ。


「……傷になってしまいますよ、先生」

「ん……!?」


 深侑の手を拘束したエヴァルトは、今度はきつく噛んでいる深侑の唇をぺろりと舐める。驚いて口を開けると、熱い舌が口内に入ってきて内壁を撫でた。


「ぁっ、だ、んん……っ!」


 まるで、海に溺れているようだった。


 酸素を求めて息継ぎをしてみても、すぐに波に飲まれる。大量の海水に襲われて溺れてしまう感覚に陥った深侑の唇の端から、たらりと透明な蜜が溢れ出た。


「ここら辺にはいないか……仕方ない、戻ってみよう」


 深侑とエヴァルトがいる部屋のドアを開けることなく、レアエルがその場から立ち去る。壁を隔てたこちら側では、くちゅくちゅと唾液が混ざる卑猥な音が部屋中に響き、先生同士が口付けをしているなんてレアエルは思ってもいないだろう。


「……先生、大丈夫ですか?」


 エヴァルトの唇から解放されたのは、レアエルが立ち去ってから数分後。すっかり腰が砕けてしまった深侑を支え、真っ赤に染まっている目元にキスをしながらエヴァルトが深侑の頭を優しく撫でた。


「こ、こんなことする、必要は……っ」

「すみません。先生があまりにも可愛らしくて、つい……」


 ごめんなさい、と言いながらしゅんとするエヴァルトは、雨の日にずぶ濡れになって悲しげな様子だったアルトの姿と重なった。


 ――その顔したら俺が許すと思ってるだろ!


 と心の中で悪態をついたけれど、実際問題、怒れないのには理由がある。はっきりと、確かな意思を持って、彼との口付けに途中から深侑も夢中になっていたからだ。


 拘束されていた腕は解かれていたのに、その手はエヴァルトを押し除けるどころか彼の首に腕を回していたのだから、エヴァルトだけに文句は言えない。反論できない深侑が悔しそうに唇を噛むと「ほら、また」と言いながらエヴァルトの指が唇に触れ、ふにふにと弄ばれた。


「キスに関しては先生の意思を確認しないまま、してしまってすみませんでした」

「……」

「お嫌でした、よね……」


 ――ちくしょう。あざとい女子かよ! 矢永さんにでも教えてもらったのか!?


 そう思うくらい、エヴァルトの態度がしおらしく見える。自分は本当に騙されているわけではないのか、これはちゃんとマスターとしての業務なんだよな?と思いながら、深侑は悔しそうに「……いやでは、なかったですが……」と呟いた。


「そうですか! ので、今後もさせてもらっても?」

「え!? そ、それとこれとは話が別……っ」

「キスというのはストレスを大幅に軽減させるらしいですよ。王宮の医師が言っていたので間違いありません」

「それ、本当に本当ですか!?」

「はい。その医師を連れてきて話を聞いてもいいですよ」


 にっこり、という効果音がつきそうなほど眩しい笑みを向けるエヴァルト。ただ、確かに深侑がいた世界でもキスはリラックス効果や幸福感を高める作用があると言われていたので、あながち間違いではないのだ。


 でもそれは恋人同士や結婚している相手に対して効果があるものでは――?


「先生は私のマスターですよね?」

「う……」

「私がアルトにならないよう、協力をしてくださると……」

「うう……っ」

「私は先生がいないと、困ってしまうんです」


 何だかんだと言いくるめられた気がするけれど、深侑は結局、首を縦に振ることになった。




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