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 自分の不思議な感情に気づかないフリをした深侑だが、自分の胸元に主張しているキスマークが気になって仕方がない。飼い主マスターだから印をつけられたのに、エヴァルトには何の印もないのは変な話だ。


「あの、小公爵様……」

「はい?」

「俺も…しるし、つけてみたいです……」


 キスマークなんて、26年の人生で一度もつけたことがない。でもエヴァルトにはつけてみたいなと思う自分がいて、初めての感情に深侑自身も戸惑っていた。ただ、したことがないものは経験してみるしかない。それでいつか、この感情の名前が分かるような気がした。


「も、もちろんです! 先生にならいくらでも」


 エヴァルトは嬉しそうに顔を輝かせ、かっちりとした軍服を丁寧に脱いでいく。白いシャツだけになった彼は「どうぞ」と言いながら深侑に向き直った。


「あの、ボタンを……」

「先生が外してくれませんか? 私もそうしたので」

「えっ、お、おれが!?」

「先生がしてみたいって言ったじゃないですか。何事も経験です、教師・・ならば」


 にこにこと笑っているエヴァルトは自分で襟元をくつろげる気はないらしい。馬鹿なことを言ってしまったなと思いつつ、エヴァルトの足の間にちょこんっと座り直した深侑は震える手で彼のシャツに手をかけた。


「そんなに震えなくても、取って食いやしませんよ」

「き、緊張してるんです、話しかけないでください!」

「はは、分かりました」


 深侑の頭上にはくすくすと笑い声が降ってくる。深侑のほうが4歳も年上なのに22歳の青年から確実に馬鹿にされていることに腹が立ったが、経験がないのは事実なので仕方がない。別に今から体を重ねたりするわけではなくキスマークをつけようとしているだけなのだが、やましいことをしている自覚があるので緊張して手が震えてしまうのだ。


「先生、落ち着いてください。私は逃げませんから」

「う……」


 やっとの思いでボタンを三つ外すと、エヴァルトの厚い胸板が露わになった。白い肌が眩しすぎて目を瞑りそうになったが、彼の右胸についている傷に気がついて深侑は目を見開いた。


「この傷、最近のものではないですか?」

「ああ、これは……幼い頃についた擦り傷ですよ」

「擦り傷が大人になっても残るなんて、信じると思いますか」

「……先生は目敏いなぁ。正直に話すと、初めて騎士として戦場に出た時につけた傷です。10代の頃ですかね。今のレアエル殿下より少し上くらいだった時に」


 これが心臓のある左胸ではなかったことを幸いと言っていいのだろうか。右胸だから助かったわけではないだろうが、今のレアエルと同じくらいの年齢に戦場へ出た幼い彼はこんな傷を負って痛かっただろう。恐怖も感じただろうし、戦いとは無縁の世界で生きてきた深侑には計り知れないほどの感情を抱いたはずだ。


 その頃はまだポメラニアンになる呪いはかけられていなかっただろうが、幼いエヴァルトは辛さや痛みを分かち合える人は側にいたのだろうか?


 今のレアエルのように誰も側にいなかったわけではないだろう。でも、その頃のエヴァルトの側に自分がいられたらよかったのにと感じた深侑は、自然とその傷に顔を近づけていた。


「ん、ミユ……」

「いたい、ですか……?」

「いえ、全然。あなたの唇の感触がくすぐったいだけです」


 見様見真似でエヴァルトの肌に吸い付いてみるが、上手くいかない。子猫や子犬のようにただ吸い付いていると、大きな手が深侑の頭を撫でた。


「先生、もう少し強く吸ってみてください」

「はい……こう、ですか?」

「上手です」


 エヴァルトに優しく撫でられながらじゅっと強く吸ってみると、彼の白い肌についた傷跡の近くに赤いキスマークが小さいながらも存在感を放っている。いつもエヴァルトがするようにキスマークの上をぺろりと舐めると「先生……」と、チョコレートやキャラメルを溶かして煮詰めたような声が降ってきた。


「無意識ですか?」

「へ……?」

「はぁ、天然とは本当にたちが悪い……」

「え? えっと、ご、ごめんなさい?」

「理由が分からないのに謝るのは感心しませんね」

「う。ごめんなさい……」

「いえ……元はと言えば私が勝手に煽られただけなので」


 ――あ。キス、だ……っ。


 顎をくいっと持ち上げられ、エヴァルトの顔が迫ってくる。この雰囲気はもしかしたらキスをされるかもしれない、と思った深侑はぎゅっと目を瞑った。ただ、予想していた熱は唇に降ってこない。その代わり、唇の端に柔らかくて甘い熱が押しつけられた。


「寝ましょうか、先生」


 ――ただの満足した合図、だった……。


 エヴァルトのマスターになると決めた頃、彼が『十分甘やかされました』という合図を決めていたのだ。それが、深侑の唇の端にキスをすること。期待していた熱とは違うところにエヴァルトの熱を与えられ、モヤっとした気持ちを抱えたまま深侑はエヴァルトに抱かれながら横になった。


「……そういえば、聖女様のご結婚についてですが」

「そうだ、俺もその話を聞こうと思っていたんです」


 先ほどまでモヤっとしていた気持ちはどこへ行ったのか、莉音の話になると深侑の頭の中はパッと切り替わる。深侑の変わりようにエヴァルトが笑っていたが、深侑は気が付かなかった。


「言い出したのはハートレイ侯爵です。彼は宮廷魔導士の一人で、聖女召喚の儀式にも参加していました。今回の遠征にも」

「そんな人がどうして矢永さんを?」

「聖女様をハートレイ侯爵家の養女として迎え、レイン殿下と結婚させたい目論見なのでしょうね」

「矢永さんを養女にして王家に嫁がせたら、王妃を輩出した家柄と箔がつくわけですか……ハートレイ侯爵の狙いは権力ですか?」

「先生は話が早くて助かります。恐らくは議席の確保と、魔道大臣への昇格ですかね」

「そんなことに異世界から来た右も左も分からない女の子を利用しようとするなんて……」

「聖女様はあなたが一緒に来てくれて心強いと思います。守ってくれる人が一人いるだけで違いますから」

「まぁ、周りからは聖女のおまけだと呼ばれていますが……」

「……私にとっても、先生が来てくれたことは幸運です。元の世界に帰る方法もなく、無理に召喚した相手から言われてもでしょうけど」


 こつん、エヴァルトは深侑に額を押し付ける。ダークグリーンの瞳には優しい色が浮かんでいて、深侑は久しぶりに彼の体温を感じながら眠りについた。




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