あまりに突然の出来事に深侑は反応できず、自分の喉元に突きつけられている鈍色のナイフがまるで他人事にも思えた。
でも、目の前にいるレアエルたちが全員立ち上がって驚いた顔をしているので、現実なのだろう。
「居場所を教えてくれさえすればセンセーのこと解放してあげる」
メリルの声が室内に響き渡る。王都に戻ってきたメリルの行動に違和感を抱いていたのは事実だが、最初から受け入れるべきではなかったと深侑やエヴァルトは後悔した。
「本当は聖女サマのほうを人質にするつもりだったけど、まさかレイン殿下までセンセーにご執心だったなんてラッキーだなぁ。色々と手間が省けましたよ」
「……戻ってきているとエヴァルトから聞いていたが、本当だったとは。しかもこんな馬鹿げたことをしにわざわざ帰ってきたと?」
「はい。馬鹿げたことだと思うのは勝手ですけど、オレにとっては重要なことなんですよ〜」
気が抜ける間延びしたメリルの声を耳元で聞くと、あまりの嫌悪感に深侑は鳥肌が立った。この男は何の躊躇いもなく深侑の喉に刃を突き立てるだろうと思うような声と態度で、思わず生唾を飲む。
聖女として召喚された莉音が怪我をしないか、危険なことを強要されていないか、そればかりを深侑は心配したきたものだ。まさか自分がこんな状況に陥るとは思わなかったが、これが莉音やレアエル、それにレインではなかったことに心の底から安心した。
「……なぜ女神様の居場所を知りたいんですか?」
深侑が一生懸命声を振り絞ると、メリルがくすっと耳元で笑うのが分かった。
「愛のために」
――…愛?
それが何に対しての『愛』なのか、メリルの言う『愛のために』なぜ女神の存在が必要なのか、深侑には何も理解できない。ただ、メリルはそれ以上話をする気はないらしく、ナイフをぺちぺちと深侑の首筋に当てて弄んでいた。
「何にしても、とりあえず落ち着きましょう。刃物を下ろして、先生を解放してください。あなたの話は王宮で、陛下や大臣たちと話をしてこれからのことを決めましょう」
「ほんっと、レイン殿下はそのままいい子に育ったんですねー! 王妃様みたいに悪役を貫くかと思ってたのに、もうレアエル殿下と仲良しこよしになったんですか?」
「は? 悪役?」
「……やめてください、メリルさん。今はまだその話をする時ではないんです」
「えー? 言っちゃったほうが楽になりますよ! ぜーんぶレアエル殿下の被害妄想だって! 本当は誰も悪くないのに、おとぎ話みたいに自分が悲劇の主人公ぶってるだけだって教えてあげるのも兄の役目なんじゃないですか?」
どうやらメリルもカリストラトヴァ兄弟の真実について知っていたらしい。ただ一人、この場で目を丸くしているレアエルだけは口をぽかんと開けてレインを見つめていた。
「な、なんの話だ……? どういう意味……」
「キャンっ、キャンキャンッ!」
難しそうな顔をしているレインを問い詰めようとしているレアエルを、小さい体の『アルト』になっているエヴァルトが必死に止めようとしている。その様子を見たメリルは「ほんっと面白い!」と深侑の耳元で盛大に笑っていた。
「エヴァルト、そんなポンコツな姿でどうするつもりなの? レイモンド公爵家の次期当主がそんな情けない犬の姿で……このまま戻らなかったら国中の笑いものだね」
「……エヴァルト?」
「エヴァルトさんが一体どこに……」
「その足元にいる毛玉がそうだよ。醜い犬の姿に変えられる呪いをかけられた、カワイソーなエヴァルト・レイモンド小公爵様」
今度は三人の視線が一斉に、エヴァルトに注がれる。ポメラニアンになっている彼は丸い瞳に動揺の色を浮かべ、しゅんっと項垂れた。
「……調子に乗るのもいい加減にしてください」
「い、ったぁ……!」
深侑が冷静にかつ冷酷な表情を浮かべ、メリルの足を思いっきり踏みつける。予想外の衝撃に驚いたのか一瞬腕の力が緩んだ隙をついて離れようと試みたが、ぐいっと髪の毛を引っ張られて阻止された。
「調子に乗ってんのはどっちだよ。エヴァルトからあまーい言葉かけられて、自分が特別だと勘違いしてる異世界人のほうじゃん? どうせただの興味で側に置かれてるだけなのに、本気になっちゃってバカじゃないの? エヴァルトはオレみたいにキレーな顔が好みなんだよ、ブサイク!」
「………ブサイクなのはそっちだろ。小公爵様の綺麗な気持ちを持て余した挙句に捨てて、ブサイクなのに頭も弱くて可哀想。心から同情します、本当に」
「は…………?」
髪の毛を掴まれたままだった深侑は勢いよく床に投げ飛ばされ顎を掴まれると、メリルの激怒した顔が目に入る。自分の顔は綺麗だとか何とか言っていたけれど、深侑には悪魔や魔物のようにしか見えなかった。
「あはは。人型の魔物って存在するんだ……今まで見た何よりも醜い顔」
なんて呟いたのが運の尽き。瞳から光がなくなったメリルが振りかぶる動作がスローモーションに見えて、深侑はぎゅっと目を瞑った。