「――先生ッ!」
深侑が予想していた痛みや衝撃は襲ってこなかった。その代わり、目を開けるとレインが背中にナイフを突き立てられていたのだ。
「殿下……!」
「チッ、邪魔しやがって!」
「きゃあっ、どーして魔物がここに出るのぉ!?」
メリルがパチンッと指を鳴らすと、彼の両脇から黒い塊が這い出てくる。その塊は段々と狼にも似た姿に変わり、赤黒く光る瞳がレアエルと莉音、そしてエヴァエルを睨んでいた。
「……リオン! 援護を頼む!」
「え、援護って……!」
涙目の莉音の前に出たレアエルの体が光に包まれると、彼は16歳の『ラヴァ』の姿に変身した。息を飲む莉音を横目に「しっかりしろ、聖女! お前がやられるわけにいかないだろ!」と一喝すると、莉音は魔物に向けて光の矢を放つ。それと同時にレアエルが剣で斬りつけると、モヤのようになって魔物が消滅した。
「へぇ、面白い! でもまだまだ出てくるよ?」
「くそっ、衛兵たちは何してる!? どうして来ないんだ!」
「そりゃもちろん、オレが屋敷の人間は全員眠らせてきましたから。気が済むまでいーっぱい遊べますよ♪」
「……結界が張れない! あたしらとは違う力で押さえつけられてるみたいな……っ」
深侑は重症のレインを抱きしめて守るので精一杯で、何もいい策が浮かんでこない。そもそもこんな事態を予想していなかったし騎士団の人間でもないので、ただの教師が瞬時に作戦を考える能力なんて備わっていないのだ。
エヴァルトはと言えば、何とか元に戻ろうと深侑の体に頭を擦り付けているが、戻る様子はなくアルトのまま。
まさしく阿鼻叫喚とも言える状況に、魔物を従えたメリルは不敵な笑みを浮かべた。
「ゲストの準備が整ったみたいだよ、みんな! きっと一生に一度は会ってみたいと思ったことがあるんじゃない?」
メリルの言葉を合図に、部屋の床が闇に包まれる。まるでブラックホールのような風穴が開いたかと思えば、そこから現れたものを直感的に認識した深侑たちは息もできないほどの威圧感に体が圧迫された。
「……さっさとその者を殺して聖女を拷問すればいいものを。いつまで遊んでいるつもりだ、メリル」
「すみません、魔王様。つい楽しくなっちゃいまして」
ざっと見たところ、190センチ、いや2メートルくらいはあるくらいの大男がメリルの腰を抱く。人型をしているものの、頭からは二本の太いツノが生えていて、肌は青や紫がかった不思議な色をしていて、瞳の色は緋色。真っ黒な長い髪の毛に、漆黒の鎧を身につけている『男性』は深侑たちを見下ろした。
「どれを殺せば、あいつの居場所が聞き出せる?」
「一番知っていそうなのは聖女サマですから、とりあえずそこのブサイクを殺したらいいかなと。どうやら大事な人のようですから」
「ほう、そうか」
ギラリ、赤い瞳が深侑を視界に入れる。息が荒いレインをぎゅっと抱きしめながらジリジリと後退してみたが、呆気なく壁にぶつかった。
「聖女。貴様がリエーネの居場所を吐けば、こいつは腕一本で済むかもしれない。ただ、黙っている時間が長いごとに手足を一本ずつもぎ取っていこう」
「や、やめてよ、やめて! みーたんにそんな酷いことしないで!」
「ミユに指一本触れるな、化け物め! レインを刺したことも後悔させてやる……っ」
「駄目だ、二人とも! 俺のことはいいから――!」
二人だけでもどうにか逃げてほしい――
それが深侑の口から言葉になる前に、ゴトンっという鈍い音が深侑の耳に響いた。
「……先生、レイン殿下を頼みます」
「小公爵様……っ」
いつの間に元に戻ったのか、深侑を庇うように前に立って剣を構えているエヴァルトの姿に涙腺が緩んだ。鈍い音の正体はエヴァルトが魔王の腕を切り落としたからで、ドス黒い血を流す片手が床に転がっていた。
「……来たか、リエーネ」
片腕を落とされてもすぐに再生し、痛くも痒くもありませんという顔をした魔王はエヴァルトや深侑ではなく、後方を見つめて嬉しそうな顔をしていた。
深侑がちらりと後ろを向くと、真っ白な衣装に身を包み、透き通るような白く長い髪の毛を持つ美しい人が立っていた。
「これ以上、国の宝を失うわけにも、傷つけるわけにもいきません。今日ここで、私があなたを封印します」
リエーネ、と魔王から呼ばれたその人は、アルテン王国に住まう愛と創造の女神だった。ただ、その顔はエヴァルトに聞いていたような人外の顔ではなく、澄んだピンク色の綺麗な瞳をした美しい顔をしていた。
「数百年ぶりに姿を見たが、お前の美しさは昔と変わらないな。いつから女になったのか、それだけが不満だが」
「お前は女体には興味がないらしいから、性別を変えたんだ。それなのに、ここまでしつこく追ってくるとは思わなかったけれど」
「お前がお前であるなら体が男でも女でもどちらでもいい。ただ、俺はお前がほしいだけだ」
「……人間の子をたぶらかしといてよく言う」
「お前こそ、そこの威勢のいい坊主と遊んでいたそうじゃないか。妬けるな」
「減らず口を……」
リエーネが魔王に向かいながらゆっくりと歩いていく。スッと彼が手をかざすと、刺されたレインの傷口からは出血が止まって段々塞がっていく様子が分かったって深侑はホッと胸を撫で下ろした。
「元々は私とお前の問題だ。子供たちを巻き込まず、二人で解決しよう」
「お前が俺のものになるなら、こんな争いはしなくてよかったんだ」
「そうか。それなら、お前が私のものになるといい」
「なにを――」
魔王に歩み寄ったリエーネの足元から白い光が輝いて、目を開けていられないほど眩しかった。
「数千年前にお前から吸い取られた力がやっと戻った。今度は間違えないぞ、グレア」
リエーネが力強くそう言うと、魔王の姿が一瞬にして消え失せた。そしてその代わり、リエーネの主柱には真っ黒な玉がころんっと転がっている。その場にいた全員が驚いていると「これが魔王だ。私が封印したからもう出て来られまい」と子供のように微笑んだ。