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「アルト、おいで! こっちだよ!」

「きゃうっ」

「あははっ、可愛い〜! 元気だねぇ」


 ベッドの中で深侑が言った『お願い』は、本当にすぐに叶えられた。なんでもないある日の夕方、エヴァルトが『アルト』とそっくりな黒い子犬を連れて帰ってきたのだ。エヴァルトがアルトになった時は成犬だったが、エヴァルトが連れて帰ってきた子犬は深侑の両手に収まるほどの小ささ。くるんっと巻かれた尻尾を一生懸命振っている姿に、深侑は溶けそうなほど癒されていた。


「……先生? アルトにばかり構うのでしたら、ベイジルたちに世話を頼みますが」

「ふふ、子犬にヤキモチ妬かないでください、エヴァルト様」

「あなたが口付けてくれるなら」

「もう、そういうことばっかり言って……」


 深侑の部屋にあるソファに横並びで座っていると、ん、と目を瞑ったままエヴァルトが深侑に顔を向ける。彼はもうアルトにならないので深侑の『マスター業務』も終わったかに思えたが、エヴァルトは甘え上手らしい。深侑からの口付けを待っているエヴァルトの唇に触れると、後頭部を引き寄せられた深侑の口内に熱い舌が差し込まれた。


「んぅっ、ん、ん……!」

「はぁ……これくらい甘やかしてもらわないと、飼い犬に噛みつかれますよ、先生」

「今でも俺が飼い主マスターなんですか……?」

「もちろん。私の手綱を握れるのは先生だけですから」


 腰を抱かれ、深侑の顔や頭にキスの雨が降る。唇の端に口付けられると、深侑のほうからエヴァルトの唇に口付けた。


「……先生、私に触れることに慣れてきましたね」

「そもそも、小公爵様に触れるのを嫌だと思ったことはありませんよ」

「あなたって人は本当に……」


 もう一度深い口付けをしようとした時、飛び出してきた毛玉に二人はむちゅっとキスをする。深侑たちの間ではアルトが満足そうな顔をしていて、子犬の無邪気さに苦笑した。


「すくすく大きくなるんだぞ、アルト」

「きゃんっ」

「俺と小公爵様でたくさん愛してあげるからね」


 小さな頭を撫でると嬉しそうに目を瞑る。尻尾をたくさん振って深侑の愛情に応えていて、尊い命を愛おしいと思えた。自分が守っていかなくてはいけないものだと思うと責任を感じるが、深侑の隣にはエヴァルトがいる。一人きりで守るのではないのだと思うと、エヴァルトの存在が深侑にとってはとても大きかった。


「小公爵様、ありがとうございます」

「ん?」

「アルトを連れてきてくれて……まさかこんなに早く出会えるなんて思ってませんでした」

「先生が寂しいと言って悲しがるのは本望ではないので。喜んでくれてよかったです」

「俺、小公爵様が俺のことを大事に想ってくれているのが嬉しいです。そういう小公爵様のことが好きです。とても好きで、大好きです」


 こんなに幸せでいいのだろうか、と深侑は疑問を抱く。ただの間違いで聖女のおまけとして召喚された、なんの力も取り柄もない自分がエヴァルトに愛されるのは違うのではないだろうかと感じることもある。


 でもその度にエヴァルトが『大切だ』と言葉にしてくれるので、深侑はここにいてもいいのだなと思えるのだ。そうやって自然と深侑の不安を取り除いてくれるのだから、エヴァルトから離れられない。


 彼の甘い愛を知ってしまったら、もう到底、深侑から離れようとは思えなかった。


「先生が許してくれるのであれば……」

「なんですか?」

「私と結婚してくださいませんか」


 深侑がつけているブレスレットをつうっとなぞるエヴァルトはそのまま深侑の手をぎゅっと握り、愛おしそうな笑みを浮かべる。手のひらからじんわりと伝わってくる甘い熱に、深侑は鼻の奥がツンっと痛むのを感じた。


「元の世界に帰してあげることはできません。もちろん、帰りたいと言うなら方法を探します。勝手に連れてきて、先生にとっては最悪の出来事だったと思いますが……。でも私はあなたのことを愛してしまいました。これからの生涯を、あなたと共にこの世界で過ごしたい。ただのわがままですが、受け入れてもらえたら天にも昇れると思います」


 置いてきた家族、置いてきた仕事、置いてきた今までの世界。


 未練がないと言えば嘘になるかもしれないが、それでも深侑がいなくても世界は回る。時間は同じように過ぎていき、季節は巡り、ある人とは別れ、新しい命と出会う。


 そんな人生をどこで、誰の側で感じたいかと深侑が考えた時、頭の中に浮かんだのは目の前にいるエヴァルト・レイモンドだった。深侑の人生において、後にも先にもエヴァルト以上に好きになれる人はいないだろうなと確信があるほど、深侑にとって大事な人になってしまったのだ。


「エヴァルト様との人生を想像すると、俺はきっと毎日幸せで、笑顔で暮らすのだろうなとすぐに想像ができます」

「先生……」

「エヴァルト様にたくさん愛されて、たくさん愛情を注がれて、俺の愛情を全部全部エヴァルト様に捧げる……こんなに素敵な人生って、元の世界でそのまま生きている俺には絶対に訪れなかったと思います」


 深侑がエヴァルトの頬を撫でると『アルト』になっていた時のように手のひらに擦り寄ってくる。そんなエヴァルトが心の底から愛おしくて、深侑は両手で頬を包み込んで口付けた。


「柊深侑の全てをエヴァルト・レイモンドに捧げると誓います」


 そう言うとエヴァルトは面食らった顔をしていたがすぐに愛おしそうに微笑んで、深侑の細い体を逃がさないように強く抱きしめた。




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