「お母さん、高島社長、留学の申請が通りました。もうすぐ海外に行きます。」
リビングに、小早川遥の静かな声が響いた。
向かいに座る小早川洋子は驚きと喜びが入り混じった表情で尋ねた。
「そんなに早く決まったの? いつ出発するの?」
「10日後です。」
洋子はあまりの急さに戸惑いながらも、嬉しさと寂しさが混ざった様子で言った。
「すぐに荷物をまとめないとね。初めての長い旅がいきなり海外なんて、やっぱり心配だわ。昔からの友達に連絡しておいたの。その子の息子さんもロンドンにいるから、何かあったら頼りなさい。気にしなくていいから。二人は小さい頃に縁談もあったし、うまくいけば付き合えばいいし、無理なら友達でいればいいわ。」
遥は素直にうなずいた。「わかった。」
洋子は意外そうな顔をした。「遥? あっさり返事するのね。前の彼氏とは……別れたの?」
遥は黙ったままだった。
高島宏一郎はすぐに察し、テーブルを軽く叩いた。
「親に挨拶もできないような男なんて、最初から遥のことなんて考えてないんだよ。そんな相手とは別れて正解だ。」
「彼氏? 誰の話?」
冷たい声がリビングの空気を一変させた。
三人が振り返ると、高島光がドアを開けて入ってきた。
黒いシャツにスラックス姿。その立ち姿は一段と凛々しい。
遥は指先をぎゅっと握りしめ、立ち上がって呼びかけた。
「お兄ちゃん……」
光は何とも言えない表情で返事をし、車の鍵を玄関の棚に置くと、そのまま黙って階段を上がっていった。
夕食時、洋子は食卓にたくさんの料理を並べ、日本酒まで用意した。
家族に向き直ってグラスを掲げる。
「今日は遥のために、しっかりお祝いしましょう。」
遥は何か違和感を感じて、小さな声で遮った。
「お母さん、お酒が苦いけど、もしかして古くなってない?」
洋子が戸惑う間に、遥は新しいお酒を取りに行こうと言って洋子を台所に連れて行った。
「私が留学すること……まだお兄ちゃんには言わないで。」
洋子は最初は不思議そうにしていたが、義理の息子が遥を普段から気にかけていることを思い出し、きっと兄妹として寂しいのだろうと納得した。
「わかったわ。」
遥は食事を早めに切り上げて自分の部屋に戻った。
身支度をしてベッドに入り、眠気がゆっくりとやってきた。
夜中の12時、隣に誰かの体温が加わった。
熱い吐息が首筋にかかり、柔らかな唇が肌に触れて軽く噛む。冷たい感触に、遥は一気に目が覚めた。
全身がこわばり、勢いよく起き上がって彼を突き放す。
「高島光!」
「どうした? 家でお見合い話が出たから、もうお兄ちゃんには触らせてくれないのか?」
闇の中で光は口元だけで笑いながらも、目は少しも笑っていなかった。
「俺と長く付き合っておいて、今さら逃げられると思ってるのか?」
遥は彼の誤解を知っていたが、何も言い返さなかった。
沈黙の中で、光の表情はさらに冷たくなる。
彼は遥を腕に強く引き寄せた。
「遥、俺はお前が恋愛するのを許さない。お前は俺だけのものだ。」
背中に熱い体温を感じながら、遥は争う気力もなく、とっさに嘘をついた。
「今は……ちょっと体調が悪いの。」
彼女が素直に従うと、光の表情は少し和らいだものの、まだ眉間に皺を寄せていた。
「この前終わったばかりじゃなかったか?……まあ、今日は無理はさせない。寝ろ。」
そう言いながら、さらに強く彼女を抱きしめた。
彼の穏やかな寝息を聞きながら、遥は一睡もできなかった。
誰も知らない。遥の恋人は義理の兄、高島光だった。
12歳の時、母親が高島家に嫁いできて、彼女と光は法的には兄妹になった。
14歳で「お兄ちゃん」と呼び、彼は「妹」と呼んだ。
18歳、光の名前で埋め尽くされた日記が見つかり、彼は机にもたれて何度もそれを読み返し、取り戻そうとした遥の手を掴み、頬にキスを落とした。
20歳、初めて一線を越え、それ以来、抜け出せなくなった。
昼間は兄妹、夜は恋人。
高島光との関係は、優等生だった遥が生まれて初めて犯した唯一の反抗だった。
彼を心から愛していた。たとえ一生この関係を秘密にして、いつか海外で結婚してもいいと思っていた。
その夢が砕けたのは、半月前のことだった――
あの日は大雨が降っていた。遥は光に傘を届けようとしたが、個室の外で彼の友人たちの会話が聞こえてきた。
「高島、義理の妹はもう片付けたのか? 遊び終わったら捨てるって言ってたよな?」
「そうだよな。最初からあの女に近づいたのは、母親に恨みがあるからだろ? 情に流されるなよ。」
復讐?
この関係が、復讐の一環だったなんて――
遥は顔面蒼白になり、全身が震えたが、それでも光の言葉を待った。
次の瞬間、扉越しに、冷たく残酷な声が響いた。
「もっと長く弄ばないと、あいつに本当の痛みはわからないだろ。」
友人たちの笑い声が響く中、遥は氷の中に閉じ込められたようだった。
彼は遥を愛してなどいなかった。あの夜のぬくもりも、恋人のささやきも、すべては母親への「仕返し」だった。
母が高島家で暮らしている以上、遥には事実を口にすることはできなかった。
ここから逃げ出すしかない。彼から離れるしかない。
だから遥は留学を決めた。
今、スマートフォンの画面にはカウントダウンが静かに光っている。静かにこの家を去るまで、あと10日。
遥は光の腕をそっと外した。
だが5分も経たないうちに、また彼の腕が巻きついてくる。何度も繰り返すうちに疲れ果て、ついには抱き枕を二人の間に押し込んだ。
ようやく彼は動かなくなった。
遥は知っている。この歪んだ関係は、もうすぐ終わる。
もう、彼だけのものにはならない。