遥は心の中でわずかに動揺し、そっと白河夕を横目で見た。彼女は挑発的にスマートフォンを掲げ、タイマーを1分後にセットする。
やがて、けたたましいアラーム音が鳴り響いた。
白河夕は電話を受けるふりをし、瞬く間に目に涙を浮かべ、泣き声混じりに前の席に向かって訴えた。
「光さん、執事から柴犬のコタロウが急に体調を崩したって……すごく怖いの。今すぐ家まで送ってもらえない?」
高島光は車を路肩に停め、大雨が降りしきる窓の外を見つめながら眉をひそめ、後ろを振り返った。
涙に濡れた夕の顔を見て、しばらく迷った末に遥へ向き直る。
「夕を世田谷まで送るのは遠回りになる。悪いけど、ここで降りてタクシーを使ってくれる?」
白河夕は遥が拒むのを恐れ、すぐに折りたたみ傘を差し出した。
遥は二人の間をしばし見つめてから、何も言わずにドアを開けた。
傘の骨から雨水がこぼれ落ち、薄手の服はあっという間にずぶ濡れになる。
土砂降りの中、道には空車のタクシーすら見当たらない。遥はバッグで頭を覆い、雨の中を必死に走った。
三十分後、全身ずぶ濡れのまま入国管理局にたどり着いた。
在留資格証明の手続きを終えたものの、帰り道もタクシーはつかまらない。遥は歯を食いしばり、雨の中を一時間歩いてようやく高島家へ戻った。
玄関をくぐった瞬間、世界がぐるりと回った。身体は熱く火照り、ふらつきながらベッドに倒れ込む。
うなされるような眠りの中、冷や汗をかきながら、何か恐ろしいものに追われている夢を見る。
必死に目を開けると、その“怪物”は高島光だった。
彼は遥を抱きしめ、薬をスプーンで唇にあて、かつてないほど優しい声で囁いた。
「いい子だ、薬を飲めばすぐ良くなるから。」
遥は現実か夢かもわからず、言われるまま薬を飲み込み、再び意識を失った。
次に目を覚ましたとき、熱はすっかり引いていた。
思わず隣に手を伸ばす——
そこは冷たく、空っぽだった。
ただ、枕元のスマートフォンがひっきりなしに震えている。
ロックを解除し、LINEグループ「高島組」を開くと、目に飛び込んできたのは大量のメッセージ。
[佐藤鋭]:高島さんの神演技!妹が熱出したって、百億円の案件をあっさり後回し?
[中村鋒]:おかしいぞ、信号無視してまで家に飛んで帰るなんて、本気じゃないのか?
[全員]:あの必死な様子、演技じゃなかった!
その下に、光からの冷ややかな返信が突き刺さる。
「本気?俺がそんなふうになるわけない。全部は彼女を深い泥沼に落とすためさ。真実が明かされたとき、心底苦しむだろう?それでいいんだ。」
一字一句が胸に突き刺さる。
五年の想いが、「俺がそんなふうになるわけない」の一言で終わりを告げた。
高島光——あなたは本当に、心を持っていなかったのね。
遥は力が抜け、スマートフォンが手から滑り落ちた。
「カチャッ——」
その音と同時に、寝室のドアが開く。
湯呑みを手にした光がこの様子を目にし、顔色を変えて素早くスマートフォンを取り上げた。
普段の気だるげな声が、どこか張り詰めている。
「何を見た?」
遥はうつむき、真っ赤な目を隠しながら、かすれた声で問い返す。
「私が見てはいけないことでもあるの?」
彼女にはわからなかった。自分がこれほどまでに深く巻き込まれていると知っていながら、なぜやめようとしないのか。
この茶番をいつまで続けるつもりなの?
そんなにまでして、私を欺き続けたいの?
もういい——彼の目的はもう十分果たされた。遥はもう耐え切れないほど傷ついている。
光は遥の目に宿る絶望を読み取れず、ただ病気のせいだと思い、そっと抱きしめてなだめた。
「何を考えてるんだ?本当はサプライズで隠してたんだ……そんなに怒るなら、今、話そうか?」
「グアムでは血縁関係がなくても結婚できるって分かったんだ。遥、一緒に移住して、向こうで籍を入れよう。もう準備も進めてる。」
この約束——かつての遥なら、何度も夜に夢見て心を灯した言葉だった。
けれど今となっては、心の中は冷たい静けさだけが残る。
遥は誰よりも知っている——
十日後、高島光の人生から小早川遥は消える。
そして彼女の世界にも、もう光はいない。