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第二十一話

倉庫の裏路地を抜けて鉄の門を飛び出すと、すぐに小早川遥の目に馴染みのある黒いセダンが、道の端から勢いよく近づいてくるのが見えた。それが高橋嘉遇の車だと気づき、彼女は全力で手を振った。


車は正確に彼女の目の前で停まった。遥は迷わずドアを開け、素早く乗り込む。


「早く、出して!」


嘉遇は一切の躊躇なくアクセルを踏み込み、車は矢のように発進した。遥はバックミラーをじっと見つめ、追っ手がいないことを確かめてから、ようやく肩の力を少し抜いた。


沈黙が続いた後、嘉遇が口を開く。声には明らかな心配が滲んでいた。


「さっき電話してきた女の人、誰だった? なんで横浜港なんかにいたんだ?」


遥が説明しようとしたその時、突然、耳をつんざくようなクラクションが鳴り響いた。彼女はとっさに振り返り、心臓が凍りつく。高島光の運転する見覚えのある車が、恐ろしい勢いで猛追してきている。その距離はみるみる縮まっていた。


説明はもはや不要だった。遥は嘉遇の方を向き、緊張で少し震える声で頼む。


「後ろの車、振り切れる?」


嘉遇の目が鋭くなり、さらにスピードを上げる。エンジンが低く唸り、彼はバックミラー越しに状況を確認しながら、厳しい声で問いかける。


「光、だな?」


遥は黙って小さく頷いた。全ては言葉にしなくても分かる。


嘉遇はさらにアクセルを踏み込むが、後ろの車はまるで何も恐れていないかのように加速し、エンジン音が激しく響く。二台の距離は容赦なく縮まっていき、数十メートルが一気に二十メートルまで迫った。


狭い後部窓から、遥には高島光の顔がはっきりと見えた。怒りと狂気に歪んだ表情、真っ赤な目がこちらを鋭く射抜いている。遥の心臓は胸を突き破らんばかりに激しく脈打ち、彼女は死に物狂いで後方を見つめた。二十メートル、十五メートル、そして息が詰まるほどの十メートル。


逃げるだけでは終わらない――その事実に遥は気づいた。絶望の中、彼女は思わず叫ぼうとする。


「嘉遇さん、止め――」


「車(くるま)」と言いかけたその瞬間、さらに鋭い金属のきしみと制御を失ったタイヤの悲鳴が響き渡り、言葉はかき消された。遥の瞳孔が大きく見開き、恐怖がその顔に張り付く――


十メートル先。


助手席の白河夕が、絶望と歪んだ衝動に突き動かされ、突然ハンドルに手を伸ばした。猛スピードの車は制御を失い、激しい横滑りのあと、路肩のガードレールを激しく突き破って、まるで糸の切れた凧のように回転しながら、暗く冷たい海へと落ちていった。


タイヤの急ブレーキ音、金属の裂ける音、水面に叩きつけられる轟音――全てが一瞬で起こり、そして海に呑まれて静寂が訪れた。


すぐに救助活動が始まった。高島光と白河夕は冷たい海から引き上げられ、一命は取り留めたものの、深い昏睡状態に陥り、ICUに運ばれた。医師は、二人が意識障害(遷延性意識障害)に陥っており、いつ目覚めるか全く分からないと宣告した。


嘉遇の車に設置されたドライブレコーダーは、事故の一部始終――暴走、ハンドルの奪取、ガードレールへの衝突、そして海への転落――を鮮明に記録していた。その映像は決定的な証拠となり、高島家と白河家――本来は婚約を通じて深く結ばれていた二つの家――は、この悲惨な事故と明確な責任の所在をきっかけに、瞬く間に対立関係となった。


事件後、遥は終始沈黙を守っていた。周囲は、身近な家族や知人が壮絶な事故に遭ったことで、遥が言葉を失うほどのショックを受けたのだと受け止めていた。


だが、その沈黙の理由を知っているのは彼女だけだった。遥は自らの過去――高島光との、思い出したくもない関係や傷を、徹底的に隠すために口を閉ざしたのだ。そのことを自分でも「利己的」だと認めていた。


けれども、その利己心は、大切なものがこれ以上壊れないように守るためのものでもある。父を亡くした母・小早川洋子が、娘の巻き込まれた醜聞や継子の狂気によって、もう二度と打ちのめされることがないように――そう願ったのだ。そして、この秘密が事故の責任や結末を変えることはないのだから、と。


消毒液の匂いと、モニターの規則的な音だけが響く病院で、静かに時は流れていった。ベッドの上の人々は眠り続け、まるで時間に取り残されたようだった。窓の外では、太陽と月が巡り、季節が移り変わっていく。


二年の月日が過ぎた。


遥は多摩美術大学を無事卒業した。卒業式の日、母・洋子が日本に駆けつけてくれた。緑の芝生が広がるキャンパスで、洋子は満開の花束を遥に手渡す。


遥は笑顔で花束を受け取り、母の腕に優しく手を添えて、あちこちで記念写真を撮った。嘉遇はカメラを手に、二人の後ろに静かに寄り添い、笑顔あふれる瞬間を次々と収めていった。


陽射しが降り注ぐ芝生の前で、遥は母の手を握り、嘉遇のカメラに向かって明るく「V」サインを見せた。陽光が細い薬指のシンプルな指輪に反射して、決意と希望の光がきらめいた。


写真を撮り終えると、遥は花束を抱えたまま嘉遇の隣に歩み寄り、カメラの画面を覗き込む。


一瞥しただけで、遥は少し眉を上げ、いつものように少しだけ厳しい口調になった。


「構図、もっと被写体を中心に持ってこないと。何度言っても覚えないんだもん。」


洋子はその様子にくすっと笑って、「嘉遇さんだって、まだ始めたばかりでしょ。遥、もう少し優しく教えてあげなさい」と穏やかに言った。


嘉遇は微笑んで、「まだまだ下手だからね。大丈夫、もう一度撮ろう」と素直に応じた。


柔らかな陽射しが三人を包み、笑顔あふれる顔に光と影が踊る。その一瞬をカメラが捉えた。これから積み重ねていく、平穏で自然で、幸せな日々の、何でもない始まりの一コマだった。

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