藤原逸は、焼肉屋で藤原理奈と出くわすとは思っていなかった。
兄の結婚はあまりにも静かで、式も何もなかった。彼がこの「義姉」と呼ばれる人物に抱く印象は、かつての家族の集まりでぼんやりと見かけた記憶だけにとどまっている。
兄があの馬鹿げた許嫁の話を本当に守って、普通の家の見知らぬ女と結婚したと知った時、逸の胸にはただただ呆れと苛立ちが広がった。
こんな時代に、誰がそんな時代遅れの約束を守るものか。
藤原司――あのほぼ完璧な兄が、どうしてこんな古くさいしきたりを受け入れるのか、逸には到底理解できない。
理奈なんて、財閥の金目当てで、祖父の冗談みたいな一言にすがって、必死に藤原家に入り込んできたゴールドディガーにしか見えなかった。
訳の分からない苛立ちが逸の胸に込み上げる。
もし、あの出来事がなければ――
兄があれ以来、選択性緘黙症なんて厄介なものを患い、全てに無関心になってしまわなければ、きっと祖父の言いなりになることはなかったはずだ。
逸が大人になってから偶然知った昔話だった。
それ以来、兄はますます無口になり、人との交流を拒み、本当に「話せなく」なった。
何事にも淡々とした態度で、自分の結婚すら、まるで他人事のように受け入れていた。
そんなことを思い出すだけで、逸の理奈を見る目にはあからさまな嫌悪が滲む。
隣の席の女が自慢げにしゃべっているのも、耳に入るだけでうんざりだった。
面倒じゃなければ、「兄貴の腕時計ひとつで、お前の十年分の給料だぞ」とでも言ってやりたいくらいだ。まったく、気取ったやつが一番苦手だ。
そして何より気に入らないのは、理奈のあの縮こまった様子だ。
ずっと下を向いて黙々と食べていて、隣のカップルの見せびらかしにも何の反応もせず、まるで黙認しているみたいでイライラする。
ビビりめ。
逸はまだ若く、何にでも反発したくなる年頃で、大人が沈黙で無用なトラブルを避ける理由なんて、まったく理解できなかった。
彼は苛立ち紛れにスマホを取り出し、兄にLINEで「告げ口」しようとする。
だが、送信ボタンの前で指が止まり、すぐに画面を閉じた。
やめた。
どうせ兄とあの女の間に感情なんてないことは知っている。
財閥の仕事で兄は十分に疲れているのに、形だけの妻のくだらない話なんか聞きたくもないだろう。
それに――
今月、念願の新しいバイクを買い、カスタムパーツに四十万円も使ってしまい、小遣いはとっくに底をついている。
もし兄の機嫌を損ねて、生活費を止められたら目も当てられない。
両親は早くに亡くなり、親戚には誰にも頭を下げたことがないが、この寡黙な兄だけには心の底で逆らえないものを感じていた。
……
夜は更け、黒のロールスロイスが煌びやかな街の灯りを滑るように走っていく。
後部座席、藤原司は長い国際会議を終え、少し疲れた様子で眉間を指で押さえていた。
車窓の外、ネオンの光が彼の冷ややかな横顔にちらちらと映り、どこか遠い眼差しを浮かべている。
車内は静まり返り、突然LINEの通知音が響いた。
【藤原理奈:焼肉食べ終わった。ココナッツウォーター買って帰る。】
【藤原理奈:君にも買っていこうか?】
司は画面を見下ろし、無表情で返信する。【いらない。】
本革のシートに身を預けると、言いようのない感情が心の奥を渦巻く。
理奈は最近……あまりにも様子がおかしい。
やたらLINEの頻度が多く、やけに積極的だ。
あの、何の屈託もなく笑う顔が不意に頭に浮かび、司は眉をひそめてそのイメージを力ずくで追い払う。
それでも、しばらくして無意識にまたスマホを手に取っていた。
指先が、緑色のパワーパフガールズのアイコンに止まる。数秒ためらった末、タップする。
同じ家に住む「妻」なのだから、近況を把握しておくのも悪くない。
それより――彼女が急に態度を変えた理由が知りたかった。なぜ今さら自分にこんなに関心を示し、よくしゃべるのか。
司が理奈のLINEタイムラインを開くのはこれが初めてだった。
指でスクロールすると、画面には食べ物や遊びの写真がずらりと並ぶ。
直近の投稿は、半分飲んだ缶コーヒーの写真。【今年のベストコーヒーと呼んで差し支えないദ്ദി˶ー̀֊ー́)✧】
さらに下を見ていくと、同じような缶コーヒーの写真が複数あり、どれも【今年のベストコーヒー】とコメントされている。
司は小さく眉をひそめた。「……」
一週間の間に、「今年のベスト」が三回。
これほど堂々と評価を覆せる感覚が、彼には理解できなかった。
さらに下には、深夜に投稿されたこんな内容もある。【ウフフ、ダーリンがかっこよすぎてヨダレが止まらない!】
握ったスマホに力が入り、視線が鋭くなる。
しかし画像を見ると、なんのことはない、アニメキャラだった。
肩の力がほんの少し抜け、代わりに言いようのない複雑な思いが胸に広がる。
さらに指を滑らせると、動画が自動再生された。
画面には、理奈が外回りの合間に、道端の色違いのゴミ箱相手にアフレコごっこをし、途中で自分で笑い出して最後までふざけている姿が映る。
司は「……」とつぶやき、すぐにタイムラインを閉じて画面を消した。
一瞬で世界が静寂に戻る。
彼女の投稿には、ひとつとして理解できるものがない。
彼女自身もそうだ。おしゃべりで、落ち着きがなくて、あまりに賑やかすぎる。自分とはまるで違う生き物だ。
深い井戸のように静かな自分と、騒がしい渓流のような彼女。
表向きだけの夫婦関係を保ち、干渉せずにいるのが二人にとって一番適切な距離だと、司は思っている。
……
八時半、理奈は冷たいココナッツウォーターを手に、海の見えるタワーマンションに戻ってきた。
二階の書斎を通りかかった時、大きなガラス越しに、司がまだパソコンの前で仕事をしているのが見えた。
明るい書斎と広々としたリビングはつながっていて、視界をさえぎるものはない。
理奈が足を止めると、ちょうど中の司も顔を上げた。
二人の視線が一瞬、空中で重なる。
理奈は反射的に手を振り、やわらかな笑みを浮かべた。
続けて、両手を頭の上でヒラヒラと動かし、髪を指差しながら、口パクで「シャンプーしに行くね」と伝える。
彼女には、匂いの強いものを食べた後、すぐに髪を洗わずにはいられない習慣がある。油のにおいが少しでも残っているのが我慢できないのだ。
一連の動作を終え、理奈は寝室へと向かった。
書斎では、キーボードを打つ音がふいに止まる。
司はその後ろ姿が廊下の角に消えるのを見つめ、深い瞳にほんのわずかな揺らぎを浮かべた。
食事に誘われたり、LINEがたくさん来たり。
今度は、そんな些細なことまで自分に報告してくる。
一体、彼女は何を考えているのか?