インターンの小野が二枚の展覧会チケットを握りしめ、軽やかな足取りで去っていった。
給湯室の噂話はまだ続いている。
なぜか話題は昨日の商談会に移った。
「昨日見た?藤原財閥の社長、藤原さんよ。ちらっと見ただけだけど、あの美しさ、現実とは思えない!」同僚が両手で顔を包む。
「ほんとに!あの横顔、鼻筋……たまらないわよね」とすぐに隣の人がうなずく。
「ちょっと、妄想はほどほどに」と誰かが注意する。「中村監督から聞いたけど、藤原さんって既婚者らしいよ」
「いいじゃない、見るだけなんだから。藤原さん、本当に格好良すぎるのに、あのオーラが冷たくて近寄り難いよね」
「それにしても、奥さんがどんな人か気になるわ。毎日あの顔を見られるなんて、夢の中でも幸せで目が覚めちゃうんじゃない?」
「ちょっと待って、はっきり言ってよ。夢で幸せで目が覚めるってこと?それとも……そういうことして幸せで目が覚めるってこと?」
「そういう話なら、私も混ぜて!」既婚者の同僚がすぐに加わる。
五人の女性同僚のうち、三人は既婚。話はどんどん大胆になっていく。
「藤原さんが話せないのは残念だよね。神様も意地悪だわ」
「まあ、残念だけど……でも考えてみて、ああいう時に声を出さずに、小さくうめくだけだったら……それって逆に色っぽくない?」
「はは、わかってる!」
「妄想が膨らむよね」
「さすが!」
理奈はコーヒーを飲んでいたが、その話を聞いて思わずむせて激しく咳き込み、耳まで真っ赤になった。
「理奈、大丈夫?」
彼女は慌ててうつむきながら手を振った。「だ、大丈夫よ。みんな続けて、私は先に失礼するね」声が少し上ずっている。
「理奈は恥ずかしがり屋だね」と同僚が笑いながらからかう。「新婚さんだもんね。あと数年すれば、私たちの話にもついてこれるようになるよ」
理奈は真っ赤な耳を押さえ、給湯室をそそくさと出ていった。頭の中では同僚たちの話がぐるぐる回っていて、できることなら洗剤で頭の中を洗いたい気分だった。
その時、スマホが震えた。
まさに「うめき声が魅力的」と噂されていた、あの人からのメッセージだった。
【藤原:来週の土曜日、竹内先生が来る】
……
藤原財閥ビルの最上階。
司は長い買収会議を終え、冷静な表情を残したままオフィスに入った。
メッセージを送って数秒後、すぐに理奈から返信が届く。
画面には、木の板に「ok」と書かれた札を持つ可愛い犬のスタンプが跳ねる。
【理奈:了解~】
「藤原さん」
伊藤秘書の声が突然背後から響く。
「Z1地区のプロジェクト案、メールで送っておきました」
その声に驚いて、司の指が画面に軽く触れた。
その拍子に――
LINEのトーク画面に「たたく」機能の通知が表示された。
司は一瞬手を止めた。
眉をひそめ、珍しく戸惑いの色が浮かぶ――この機能を間違えて使ったのは初めてで、しかも通知文があることも初めて知った。
画面には、目立つ一文が表示されている。
【理奈の頭をポンと叩いて言った:おっ、結構カタイね~】
……
理奈はスマホを見つめて固まった。
さっきまで真面目に竹内先生の話をしていたのに、急に雰囲気が変わった。
こちらの画面にも通知が表示されている。
【「藤原」が私の頭をポンと叩いて言った:おっ、結構カタイね~】
数秒の沈黙。
理奈はふと気づく――これはコミュニケーション?司が軽いスキンシップを試している?
理由は分からないが、理奈はいつも通り合わせて、すぐに「たたく」を何度も返した。
やっぱり、司の方には特別な通知文はなかった。
一方その頃。
司は「間違えた」と打ち込んでいたが、
理奈からの「たたく」が連続して届き始める。
【「理奈」があなたをたたきました】
【「理奈」があなたをたたきました】
【「理奈」があなたをたたきました】
司:「……」
あのいつも静かで冷静な瞳に、わずかに戸惑いの色がよぎる。この二十七年の人生で、こんな交流方法は初めてだった。しばらく沈黙し、打ちかけた言葉をそっと消した。
桜台住宅地、三号棟。
「お母さん!この前マンションの駐車場で見た、あの超高級車覚えてる?」白鳥雅は家に入るなりバッグを床に放り投げ、キッチンに向かって叫んだ。
白鳥川奈が顔を出す。「どの車?あの白いやつ?」
白鳥雅は腕を組んでソファに座り、顔をしかめて歯ぎしりしながら言う。「そうよ!間違いない!あの中に乗っていたのは理奈だった!」
あの日、あの高級車を見てからというもの、白鳥雅は何日も眠れなかった。
考えれば考えるほどおかしい。マンションにあんな車が来るはずがない。
一番気になったのは、車の中のシルエットがどう見ても理奈だったこと。さらに父から、その日理奈が先に帰り、私たちが後だったと聞き、時間もぴったり合っていた。
さっき階段を上がる前、念のため管理人室に寄って「猫がいなくなった」と言い訳しながら監視カメラの映像を見せてもらった。映像の中、周囲を確認してからすぐに車に乗り込む女性を見て、白鳥雅は目を見開いた――どう見ても理奈だった!
「理奈ってまだ原付で通勤してるんじゃなかった?車買ったの?」川奈は首をかしげる。
「ありえない!」白鳥雅は吐き捨てる。「あの車のタイヤ一本だって、理奈を売ったって買えやしない!どうせ何か怪しい手を使ったんだろうけど、たぶん……」
言いかけて、急に黙り込む。世界限定の超高級車なら、ネットで持ち主の情報が出てくるかもしれない。横浜のセレブ界隈は広くも狭くもない。地元の掲示板にはこういうネタが溢れている。
白鳥雅はすぐにスマホで検索を始めた。
しばらくして、体を起こしてスマホを握る手が震え、目は画面に釘付けになった。「まさか……」
川奈が覗き込む。「どうしたの?」
白鳥雅は顔色を悪くし、信じられない声で言った。「あの車……持ち主の名字、藤原みたい……」
「藤原?誰それ?」
白鳥雅の声は一気に高くなり、どこか歪んだ鋭さを帯びていた。「藤原家よ!あの財閥のトップ!藤原財閥の藤原家よ!」