(まさか、この歳になって一目惚れ、それも初恋を患うなんて。父さんや兄さんに相談したら、どんな顔をするだろうか)
「ふぅ」
男は控えめな笑みを浮かべ、頬を掻きながら小さく息を吐いた。
彼の瞳に焼き付いた彼女は、夜を思わせる深い青の黒髪に、澄んだ翠の瞳を持つ、可愛らしい少女だった。
半分人、半分鳥。風変わりな外見だが、『恋は盲目』とはよく言ったものだ。そんな些細なことを気にするような男ではない。
(…ふふっ、案外に心地の良い感情ではあるね、なんだか懐かしいというか、不思議な感覚だ)
恋を知らなかった男は、胸の奥底に生じた恋心の湧泉を感じとっていた。
『男は女に三度の恋をした。そのどれもが初恋で、そのどれもが一目ぼれである』
―――
レンガ舗装の街道を、風を切る勢いで駆け抜ける一人の少女。
小柄な体に不釣り合いなほどすらりと伸びた脚は、鳥のように二本の
腕には短い羽毛がびっしりと生え、手の甲にも柔らかな鱗がちらほら。顔は人間に近く、丸みを帯びた可愛らしい造作をしていた。
彼女の種族は、
そんな彼女は、
「こんにちはっ!なにかお困りですか?」
「見ての通り、馬車が立ち往生してしまいまして…、ッ!」
困り果てた様子の御者が振り返った瞬間、彼女の胸元に輝く証を見て、ぴたりと動きを止める。
「あー、昨日は雨が降ってたし泥濘んでいたんだね。ふむふむ…お馬さんも困ってる風だし、ちょろっと手伝っちゃうよ!」
「い、いや、そんな……魔女様にお願いする程の金子を持ち合わせていませんので、助けていただくのは、その困ってしまいます…。魔女様のお気持ちだけで結構ですので…」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ、魔女が対価を要求する時は“依頼をする時”だから、あたしが“勝手”に手助けする分には請求しないよ。困った時はお互い様っていうでしょ?そ・れ・に!迅速の魔女シュトラは、カラウス(魔力の無い人々)からの仕事も大歓迎だから、依頼をしてね!」
畳み掛けるような言葉に、ぱくぱくと口を動かしながら驚く御者たち。彼らを横目にシュトラはカバンを地面に下ろし、ポケットから乾燥した羽根を取り出すと、ひょいと馬車の屋根に飛び乗った。
チョークで素早く魔法陣を描き、中央に羽根を置くと、澄んだ歌声を響かせる。
「――――~~♪」
空間に落とされた波紋が伝播して、内臓ですら感じ取れるような振動に御者らは驚く。
野外にも関わらず歌声の反響が耳を刺激し、不可思議な感覚を味わっていた。
魔法陣に置かれた羽根が、星の引力に逆らって浮き上がり、微細な粒となって夢へと溶け込む頃には、馬車馬が一歩一歩と泥濘を進んでいく。
「よしっ、これで終わり!次は気を付けて馬車を走らせてねー!…あ、それと、もしも早く確実に荷物を届けたかったら迅速の魔女シュトラ・シュッツシュラインに依頼を出して!料金に満足が行くだけの運搬をするからね!」
「あ、はい。ありがとうござ―――」
礼を聞き終わる前にシュトラはカバンを背負い、疾風怒濤の勢いで走り去り、姿が見えなくなってしまった。
「……、通り雨のような魔女様でしたね…」
「羽人族の魔女なら“
「
―――
シュトラが辿り着いたのは、防塁に囲まれた辺境伯領の領都スィルトホラ。
ここはかつてエヴィリオニ王国を護る重要な拠点だったが、今では『国境の田舎街』程度の扱いとなっている。
然し、平和となったこのご時世であろうと入国には審査が必要で、シュトラも列に並んで順番を待つ。
「お次の方、3番窓口へ」
「はいはーい!」
カバンを背負い直し、3番窓口へ向かうと、待ち構えていた兵士が笑顔で迎えた。
「シュトラ様、お待ちしておりました」
「荷物検査と身分照会、そして入国料の支払いだよね。よろしく!」
「畏まりました。……とはいえ、シュトラ様なら一声いただければ、入国料だけで通してもよろしいのですが?」
「そういうの良くないよー。あたしは多くの人と仲良くしたいっていう、
「ははっ、いつも通りのシュトラ様ですね。それでは荷物を拝見いたします。……、壺ですか」
「そ。スィルト中央商会に急ぎで且つ確実に届けて欲しいってね」
「なるほど。内部にも包みにも不審な物はありませんから、持ち込みの許可を出します。続いて人物照会ですが―――」
手渡された身分証明に目を通す兵士は、記載されている特徴を確かめていく。
風切羽のない、短な羽毛の
暗めの青い髪と
背丈は
翼と魚尾の合わさった飾証。
「―――はい、こちらも問題ありませんので、以上で確認を終わりといたします。入国料は50エフカニス、若しくは15レコロシュとなりますが」
「えっと。レコロシュで支払うと少しの損になっちゃうし、エフカニスで!」
シュトラは財布から50エフカニス晶貨1枚を取り出し兵士に渡せば、兵士が偽物で無いかを確認し笑みを浮かべた。
「間違いありませんね。お支払いありがとうございます」
「こちらこそ。いつもありがとねっ!」
「滞在証の発行はなさりますか?」
「どうしよっかな。戻りを急ぐようには言われてないんだよね」
「なら7日ほどの滞在をお勧めしますが。明後日から夏の舞踏祭が始まりますし」
「舞踏祭!いいね!じゃあ7日の滞在証をお願い!」
「畏まりました」
兵士はさらさらと滞在証へ必要事項を記してから判を
「どうぞ」
「ありがと」
「それではスィルトホラの街をお楽しみください」
「またねー!」
元気いっぱいなシュトラは受付を飛び出し、防塁門からも出ていってはスィルトホラの街へと足を踏み入れる。
―――
(ええっと、スィルト中央商会はー)
防塁門を抜けたシュトラは、背負っていたカバンを地面に置き、くたくたになった地図を取り出して目的地を探し始める。
広場には外国から来た商人や旅人たちが集まっており、彼らを目当てにした露天商や音楽家、似顔絵描きたちが賑やかに声をかけ、客引きをしていた。
そんな中、一人の青年がシュトラのカバンへ手を伸ばす。慣れた手つきでひょいっと掴み、そのまま人ごみの中へ駆け出していった。
「「あー…」」
広場にいた人々は、シュトラをちらりと見たものの、特に驚く様子もない。…残念ながら、ここでは珍しくない光景らしい。
誰も助ける様子はなく、各々が自分の稼ぎに戻っていった。
呆気にとられていたシュトラだが、すぐに地図をポケットへ押し込み、深呼吸を一つ。
地面に手をつき、ぐっと腰を落としてから、趾でレンガを蹴り、疾風のような速度で飛び跳ね、駆け出した。
人混みをするりと避けながら、シュトラは透明な瞬膜を交互に開閉させ、視界を遮らないよう、逃げる青年を見失わないように追いかける。
(見えた。追いつける。…跳ぶ!)
ガリッとレンガ舗装を掻き、軸足に力を込めてシュトラは高く、そして早く跳び上がった。
「ぐはっ!なにしやがんだテメェ!!うががっ」
「これはあたしが配達する荷物なの、盗ったら駄目だよ。…もし壊れてたら共巣に連れてくから」
「共巣…ッ!?」
引っ手繰りは自身が何処から荷物を奪い取ったのかを悟り、顔を青褪めながら逃げ口を探す。
「そ、そこの御巡りさん!トレラ…いや魔女に襲われてます!!助けてください!!」
「…。」
通りかかった巡回兵は立ち止まり、胡乱な表情のまま二人に歩み寄る。
引っ手繰りは助かったと安堵しているのだが…。
「ええっと…、シュトラ様、諍いでしょうか?」
「この人があたしの荷物を盗っちゃってね。引っ手繰りってやつ」
「そう、ですか…はぁ…。必要であればこちらで共巣への引き渡しも可能ですが」
「待て!市民を救うのがお巡りの役割だろ!?見捨てる気かよ!!」
「この方は迅速の魔女シュトラ様だ。潜りか新参か知らないが、この辺りでは友好的で知られる魔女様だよ。今回の件で問題に発展するようであれば、君や家族にも賠償請求がいくからね」
魔女。
それは魔法を使える限られた者。独特の共同体を持つことのあるアノリア(魔女以外も含む魔法を使用出来る者たちのこと)。
基本的に、魔女とのトラブルは魔女共同体が裁き、場合によっては国主や領主に委任されるのだが、……誰も剃刀の刃の上には乗りたくない。
よっぽどのことがない限りは、状況申告を行い連行される。
「うん。荷物は無事だしこの人はカラウスの法で裁いていいよ。強盗未遂、的な?」
「寛大なご対応、感謝致します。…良かったな引っ手繰り、多少の罰金で済むことになったぞ」
「レ、レトララスめ!!」
「慎め!|その言葉が意味を持っているのか、分かって使っているのか!?
巡回兵は引っ手繰りの頭を引っ叩き、辟易とした表情で男を歩かせる。
「それではシュトラ様、佳きスィルトホラを」
「お仕事ご苦労さまっ」
シュトラは一礼し、地図を見ながらなんとなくで歩み出す。
―――
「おっかしいなぁ…?」
地図を手に、防塁広場を出てから
「お困りかな、
「こんにちは。スィルト中央商会に行きたいんだけど、迷っちゃって」
くるりと声の方へ振り向くと、そこに立っていたのは、長身の純人族の男性。
薄いオレンジ色の髪に、チョコレートブラウンの瞳。優しげな顔立ちを、地味な眼鏡で隠すようにしている。
「スィルト中央商会なら案内できるけど、……一応地図を見せてもらってもいい?」
「はい、どうぞ」
シュトラが差し出したシワシワの地図を受け取った男は、軽く目を細めた。
「……、これ…ずいぶんと古い地図だね。街の区画が変わっているから、新しい物へと買い替えたほうが良いよ」
「そうなんだ。地図の買い替え、っと」
シュトラは素早く手帳を取り出し、忘れないようにメモを取る。
(記憶が正しければ…、迅速の魔女・シュトラ・シュッツシュラインか。市井でも少し名の知れた、変わり者の魔女だと聞いたが)
男は彼女の胸に飾られた翼と魚尾の証を確認し、心の内で頷いた。
「それじゃ案内するよ。付いてきて」
「うん!ありがとね」
二人は並んで歩き出す。
「そうだ、あたしはシュトラっていうんだけど、あなたは?」
「僕はレオニス。今日は仕事が休みでね、散歩してたら、困ってる君を見かけたんだ」
「助かったよー。もうちょっと時間がかかったら、…見つかるまで走り出してたね!」
「はは、それは大変だ。……ところでスィルト中央商会へは何の用事で?」
「荷物を届けにきたの。バネエジー国で受け取って、そのまま走ってきたんだ」
「バネエジー…、随分と遠くから。よく疲れなかったね」
「ふふん、見ての通り、走るの得意な種族だからね!あたし、魔女でもあるし!」
シュトラは胸を張り、飾証と走りに特化した身体を得意げに見せる。
「迅速の魔女、シュトラさんだよね?」
「うん。料金は高いけど馬よりも速くて確実に荷物を運搬するから、必要なら依頼出してよ」
「でも、街中で迷うんだね」
「いやはやー、そこを指摘されると恥ずかしい限りなんだよね」
シュトラは恥ずかしそうに照れ笑う。
「今回は地図が悪かったということで!」
「なるほど。なら早急に買い足さなくてはいけないね。配達が終わったら製図屋まで案内しようか?」
「いいの?」
「風変わりな魔女さんと、もっとお話しをしてみたいから」
「ありがと、それじゃお願いしよっかな」
「光栄にございます、迅速の魔女様」
レオニスが片膝を折り、騎士のように跪いてみせる。するとシュトラは目を丸く、そして輝かせた。
「あははっ、守護騎士様みたいだね!」
「女の子受けがいいから練習してたんだ」
「そうなんだ!」
シュトラはころころと笑いながら、レオニスと一緒にスィルト中央商会を目指して歩き続けるのだった。
―――
「ようこそ、スィルト中央商会へ。お待ちしておりました、迅速の魔女シュトラ様」
「こんにちは!バネエジー国から荷物を届けに来ました!」
「ありがとうございます。…ふふっ、お久しぶりですね。半年前にお会いした時よりも、更に可愛らしくなられました」
「あー…、えっと…」
「私は商会の番頭、ガトス・クリソダリスです」
壮年の男は鷹揚に腰を折り、魔女に対して一分の隙もない礼を示す。たとえ顔を忘れられていても、だ。
「ごめんね、物を忘れやすくってさ」
バツの悪そうに視線を逸らすシュトラを見て、ガトスは目尻にしわを刻んで笑った。
「存じておりますよ。実はこの話を伺うのも、これで二度目でして。それでも、私はシュトラ様にお願い致しました」
「えへへ、ありがとう、ガトスさん!じゃあ荷物の確認、お願いね!」
「お任せくださいませ」
(シュトラさんは記憶に難があるのか。少なくとも、ここに三度訪れているはずなのに。迷っていた姿を思い返すと……もし次に合う時は、忘れられているかもしれないね。……少し切ないか)
納品に付き添っていたレオニスはガトスの視線に気づき、そっと「しー」と唇に指を当てて微笑む。ガトスも理解したように、小さく頷き、壺の確認に戻った。
「モタンスの壺に間違いありません。疵もないようです。……皆さん、いかがですか?」
「贋作の疑いなし」「完璧な状態」「最高の納品だ!」
鑑定士たちの声を聞きながら、シュトラは胸を張る。迅速の魔女たる彼女の運搬技術は、他の追随を許さない
「では、報酬のお支払いですが、エヴィリオニ王国のエフカニス
「直ぐに支払える?」
「はい。今なら両方ともご用意できます。他国通貨は数日要しますが」
(どっちでもいいけど……共巣では今、どっちが流行ってたっけ)
シュトラは懐から手帳を取り出し、ぱらぱらとレートを確認して答えた。
「10500エフカニスと1000レコロシュで」
「畏まりました。それではお持ちいたしますので、あちらでお待ち下さい」
「わかったよ」
指示された長椅子に、シュトラとレオニスは並んで腰掛けた。
「
「色々だよ。運営費の都合上、ある程度統一性が求められるけど、周りの状況に合わせてる感じ。強いて言うなら、今はエフカニスが人気かな」
「運営費って…、税金みたいなものかな?」
「うん、そんな感じ。
「『理の魔女』、確か統治機関だっけ?」
「あってるよ」
「シュトラさんは、その運営費のために出稼ぎしてるの?」
「ヘルソマルガリティア内でも―――」
そう話しかけたところで、ぐらりと地面が揺れた。
「地震だね。こっちに寄って」
「うん」
シュトラをかばうように近寄せたレオニスは、天井に吊られた燭台を見上げ、揺れの様子を確かめた。
「嫌な揺れだ……もう一度強く来るかもしれない。外に出ようか」
「そうだね、最近地震多いし、ッ!」
ぐらり、ぐらりと揺れた壺を目にしたシュトラは、反射的に地を蹴り、人々を避けながら受付台を飛び越え、モタンスの壺へと向かう。
ちょうど床に落ちる寸前、彼女は両腕で抱きかかえた。
「うへっ!」
そんなに大きな壺ではないのだが、シュトラの魔法が解けて本来の重さに戻った壺を小柄な身体で受け止めたのだ、それなりの衝撃に吐息を漏らす。
「だ、大丈夫かい?」
「壺は割れてないよ」
「……そっちじゃなくて、シュトラさんが、大丈夫かってこと」
心配するレオニスの語気はやや強いものの、シュトラが気にする風はない。
「へーき、へーきー」
「しゅ、シュトラ様ありがとうございます。配達は終わっているのにも関わらず身を挺してまで…」
「未だお金は受け取ってないからね。配達費を受け取るまでがお仕事だから、これくらいはするよ」
「…ありがとうございます」
シュトラは笑って壺を商会員に手渡すと、丁寧に積み上げられたエフカニス晶貨とレコロシュ鉱貨が運ばれてきた。
「では、1500エフカニス晶貨7枚と、500レコロシュ鉱貨2枚、確認をお願いします」
シュトラは指先で晶貨を弾き、燭台の光に透かして色を確かめ、鉱貨は音を聞きながら一枚ずつ確認し、頷いた。
マラコ原晶を加工したエフカニス晶貨は光を5つの色に変化させる特性がある。
「うん、問題ないね!ご依頼ありがとうございました!スィルトホラには7日間滞在予定だから、また荷物があったら声かけて!割引はしないけど、確実に、最速で届けるから!」
「はい。畏まりました。素敵な滞在を」
商会員たちの慇懃な礼に手を振って、二人は出入り口へ足を向けた。
―――
「最近、地震多いよね」
「多発と言うほどではないけれど、一季に一回はあるだろうか」
「凶兆じゃないといいなぁ」
「そうだね。さあ、お次は製図屋に行こうか」
「うんっ!」
―――
「本当に助かったよ、レオニスさん。ありがとう!割引は出来ないけど、配達の依頼は喜んで受けるからよろしくね」
「考えておくよ」
新しい地図を手に入れたシュトラは、嬉しそうにカバンにしまい込んだ。
「ところでレオニスさん、まだ時間ある?」
「今日は休日でね、丸一日空いているよ」
「なら、お昼一緒しよう?お世話になったお礼に!」
「勿論。何処へでもお連れ下さい、魔女様」
「あははっ、カッコいいね!やっぱ慣れてる感じ?」
「まあ、そこそこに」
「そうなんだ、色々とお話し聞かせてよ」
「良いよ。じゃあ、僕の行きつけの店に行こう」
シュトラとレオニスは、並んで歩き出した。
―――
二人が少し歩いて辿り着いたのは、「うみねこ
中を覗けば、どちらかというとパン屋に近い佇まいだとわかる。
「こんにちは。席、いいかな?」
「あらレオニスさん、…まあ可愛らしい女の子を連れて、デートかしら?」
「そんなところかな」
「うふふっ、近所が賑やかしくなるわねぇ」
店員の女性は、シュトラの胸に飾られた魔女の証をちらりと見て、ひとり頷く。
「今日は
「僕はいつもの。シュトラさんは?ここはハムとチーズと野菜を乗せたオープンサンドが美味しいよ」
「じゃあそれで!」
「飲み物は、紅茶かハーブティーがあるけど」
「ハーブティーって何があるの?」
「カモミール、ローズヒップ、それとジンジャーです」
3つの小瓶を揺らして、シュトラへ見せつける。
「ジンジャーで」
「僕は紅茶を」
「いつもの二つと紅茶、ジンジャーですね。暫しお待ちを」
店員が湯を沸かしながらサンドの準備を始めると、シュトラはカバンから小瓶と布を取り出し、アルコールを手に垂らして拭き始めた。
「何をしてるの?」
「手を消毒してるの、アルコールでね。治癒の魔女に『仕事上、色んなもんに触るから、食事前に手を綺麗にしなさい』って言われてるんだ」
「治癒の魔女が、か。…僕も真似してみようかな」
「はい、どうぞ!ただ、
「…ああ。…ありがとう」
わかりやすく物忘れをしている姿を不憫に思いつつ、レオニスも手を清潔にして食事を待った。
「シュトラさんは、なんで共巣から外に出て働いてるんだい?」
「お金を集めるためと、共巣以外の景色を見たくてね。カラウスを手助けしてるのも、人気取りって感じかな」
「人気取り?」
「うん。運搬の品質が担保されているって名前が売れれば、値段が高くても依頼を出したいって人は少なくないと思うんだ。だから、仕事に含まれない部分で困ってるカラウスを助けることは、人気取りってね」
「なるほど。……お金を集めて、その先に何か目的が?」
「あるよ! 数年分の運営費を一括で納めて、それから色んな国々を旅したいの!」
「旅。僕も昔、世界を回る冒険に憧れたよ」
「でしょ!予定は未定だけどね」
「エヴィリオニ王国はどの辺りまで?」
「西は首都のパラミクポリまで。バネエジーの首都と比べると、ちょっと寂しい場所だったなぁ」
「政権紛争で人が離れたからね。あそこは“生活の場所”というより“行政の場所”だよ。周囲の都市の方がずっと賑やかだ」
「へぇー物知りだ」
「色々ね。少し西に行けば、ネオシモ領っていう大きな領地があって、そこは毎日がお祭り騒ぎだよ」
「そうなんだ。依頼があれば行ってみたいなー」
夢を膨らませるシュトラに、店員が笑いながらオープンサンドを運んできた。
「お待ちどさん。旅行のお話しですか?」
「ありがと。行けたら行ってみたいかなって話し」
「いいわねぇ。私はスィルトホラから出たことがないもんで、色んな所を回れるのが羨ましい限りですよ」
「今は未だ、共巣中心だけどねー」
カリカリ焼きたてのパンに乗ったハムとチーズと野菜を頬張り、シュトラはジンジャーティーで喉を潤す。
「酸味のあるスプレッドだね」
「特製のサワークリームを使っているんですよ。他のメニュー、オープンサンドには大体使ってますね」
「じゃあまた今度来るね。このオープンサンド、とっても美味しいからさ!」
「ありがとうございます、可愛いらしい魔女さん」
舌鼓を打ったシュトラは満足気に微笑んだ。
―――
「今日は本当にありがとう、レオニスさん。楽しかったよ」
「どういたしまして。こほん、魔女様に喜んでいただけたなら恐悦至極に存じます」
レオニスの態とっぽい仕草にシュトラは笑い、彼はふと思い出したように、ポケットから小包を取り出した。
「よかったら、これ」
「いいの?」
「ちょっとしたものだよ」
シュトラが包みを開けると、そこには可愛らしいイベリスの髪飾りが入っていた。満面の笑みを浮かべながら、彼女はすぐに髪に着けてみせる。
「どう?似合う?」
「とっても」
「えへへー、本当にありがとねっ!…うーん」
「どうかしたかな?」
「貰ってばっかだと不公平だと思ってさ」
「気にしなくてもいいのだけど」
「そうだ!」
背負カバンを漁り、中からより小さなカバンから1枚の絵を差し出した。
「これはあたしが描いた絵でね、ヘルソマルガリティアの街の様子」
「おお、上手だね。これは…鉛筆画かな?」
「ううん、木炭画。色んな画材を試してきたけど、木炭と木炭紙が一番描きやすいかなって」
「なるほど。………素敵だから、僕の部屋に飾らせてもらうよ」
「えへへ、そう言ってもらえると嬉しいな」
白黒で描かれた絵画は、見る者にそこに生きる魔女やそれに類する者たちの息吹を感じさせるものだった。
「じゃあまたね、レオニスさん!7日くらい滞在する予定だから、また会えたらお話しようね!」
「是非」
宿を取るためシュトラはパタパタと走っていき、レオニスは満足気な吐息を漏らす。
(
控えめな笑みを浮かべた男は頬を掻き、小さく吐息を漏らした。そして、ただただ楽しそうにレオニスは歩き、道端に停まっていた辻馬車を拾う。
「スィルトホレオス邸まで」
「…、250エフカニスになります」
「よろしく」
座り心地の悪い座席に腰掛け、前金で少し吹っ掛けられた料金を支払う。馬車の揺れの中でも、レオニスは無意識に、人混みにシュトラの姿を探していた。
(シュトラ・シュッツシュライン。迅速の魔女。噂話の聞いた魔女だけど、実際にあってみると印象は違ったかな。…時折、露店の商品を眺めては値段を書き留めていたけど、外部へ足を運ぶ魔女としての職務だろうか?)
いくつもの疑問と胸のトキメキが渦を巻く心模様に、小さな波紋が一つ広がる。
(初めて会った気がしない、かな)
「やあ。馬を借りたいんだけど良いかな?」
「レオニス様、おかえりなさいませ。一声頂ければ正門を開けましたが」
「いいよ、手間が増えるだろ?」
「ははっ、ですよね。馬をお連れしますので少しの間お待ちを」
正門から屋敷までは徒歩
玄関に到着し、待機していた使用人に馬を預ける。
「おかえりなさいませレオニス様」
「ただいま。…湯浴みをしたいから準備を頼む、……それと、この木炭画が収まるだけの額縁の用意もね」
待ち構えていた使用人へ指示を出しながら手荷物と上着を渡し、木炭で汚れてしまった手を見て洗面所へと向かった。
「おや、レオニス。帰っていたのだね、おかえり」
「ただいま、兄さん」
レオニスと同色の髪と眼の色をした穏やかそうな男。
彼の兄でありスィルトホレオス家の嫡子リカニス・スィルトホレオス。つまりレオニスの本名もレオニス・スィルトホレオスとなる。
「どうしたんだい、嬉しそうな顔をしてさ」
「いやさ、市井で可愛い女の子と出会ってね。恥ずかしながら恋をしてしまったのですよ」
「ほほう、鋼鉄の心を持ったレオニスが、かい?幾度も見合い話を蹴ってきたというのに、こんな簡単に惚れ込むとは…分からないものだ」
「そこまで言わなくとも…」
「それでどんな相手なのだい?」
「羽と鱗の共巣の魔女なのですが」
「…。…うーん、うーん…魔女かぁ…。魔女…うーん」
兄は額に指をおして、深く考え込む。
「難しい、でしょうか?」
「共巣の魔女は
「…。」
「『スィルトホレオス家次男の嫁に』なんて申し出ても、靡くどころか高額の結納金と厄介な約定を要求される筈だ」
「金額は兎も角、約定ですか」
「どこかの領地では、100万エフカニスと細かい約束を要求して揉めた記録もある」
「そう、ですか…」
「あの、リカニス様レオニス様、歓談をなさるのであれば場所を移された方がよろしいかと」
そんな会話を廊下で続ける二人を、使用人が困ったように見ており、苦笑しながら一旦廊下を後にした。
▼▼▼
頭が痛い。…首も。
「……。」
幾多の失敗をしてきた。
そのどれも、みんなの手助けがあって乗り越え、進めた。
「先生…、この状況は」
「ごめん……ダメだったよ、全部」
衣服に染み込んだ血液が、鉄臭い匂いが鼻を刺激して気持ち悪い。
原因は分かってる。………
あたしの選んだ、結果だ。
「悪いけど、…みんなのことは任せてもいいかな?」
振り返ってみると、そこにいるのは弟子であることを認識できるのにも関わらず、名前を思い出すことのできない魔女。
きっと大切な子だ。思い出せない事実に、胸が締め付けられる。
「畏まりました。…先生のお帰りを待ち続けます、………(忘れてしまっても)」
最後の言葉は聞き取れなかった。…聞かれたくないから、口を窄めたんだね。
「これからは停滞の時代が来る。…悲劇を繰り返さないためにも、魔女以外との接触は最低限にね」
弟子の返答は…聞けない、聞く資格があたしにはなかった。
砂埃が舞い上がる瓦礫の街を、一人の魔女が振り返ることもなく歩いていった。揺れる夜色の髪に、後悔の星を散らして。
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