夕暮れが近づく頃、街中を元気に走っていたシュトラは、一軒の宿屋に辿り着いた。
年季の入った……いや、貫禄ある佇まいの老舗宿。その分やや値は張るが、上質な部屋を提供してくれると評判の宿だ。
エボニー材の重厚な扉を押し開けると、落ち着いた内装が目に飛び込み、同時に受付と目が合う。
(共巣の魔女が当宿に……初めてのお客様かと存じますが)
「こんにちはっ。一部屋、7日間で取りたいんだけど、空きはある?空いてたら18番が良いな」
「18番室ですね。はい、空いております。……失礼ですが、お客様は当宿『炭窯亭』にご宿泊いただいたご経験が?」
「たぶんね。18番室からの眺めを絵に描いた覚えがあるから」
(若い魔女のお客様に心当たりはありませんが、ひとまず…)
「承知しました。念のため、宿泊費は前払いとなりますが、よろしいでしょうか」
「いいよ。いくら?」
「祭の前ですので、朝夕食事付き7日間で3150エフカニスとなります」
「はいっ」
受付は表情こそ変えなかったが、少し意外そうにしつつ、しっかりと料金を受け取って18番室の鍵を用意した。
炭窯亭は「客を選ぶ宿」としても知られており、金を積めば誰でも泊まれるというわけではない。その受付が鍵を渡したということは、シュトラを「泊めるに値する客」と見たということなのだろう。……魔女との面倒を避けたかったのか、あるいは前払い即決に信頼を置いたのかは定かではないが。
一方、シュトラはそんな事情を知る由もなく、満面の笑みで鍵を受け取り、お礼を述べたあと、宿泊名簿に名前と所属を書き込んで階段を上っていった。
(それにしても……彼女、いったい何時頃に来たのでしょう?私が休暇中に、短期での滞在があった……?……シュトラ・シュッツシュライン、後で記録を浚ってみましょう)
18番室の扉を開けると、部屋は夕焼けの光に包まれていた。懐かしそうに目を細めながらシュトラは荷物を降ろし、木炭画を探す。
「…家に置いてきちゃったかな?……、新しく描いて、見比べればいいかな」
日は傾き、夕食まであまり時間がない。滞在はそこそこ長くなる予定だし、まずは休息を取ろうと、シュトラは階下へ戻り、湯浴みをすることにした。
―――
(共巣を出て以来の湯船、気持ちよかったぁ…)
髪に少しだけ残った水気を揺らしながら廊下を歩いていると、一人の老紳士が前に現れ、深々と頭を下げた。
「迅速の魔女様。ようこそ『炭窯亭』へお越しくださいました。私は当宿の支配人、どうぞお見知りおきいただければ幸いです」
「迅速の魔女、シュトラ・シュッツシュライン。シュトラって呼んでいいよ」
「では、シュトラ様と」
老紳士の顔を見たシュトラは、どこかで見覚えがあるように首をかしげる。どうやら、相手も同じように感じているようだった。
「シュトラ様とは……以前、どこかでお会いしたような気がするのですが?」
「前に泊まったんだ。あたし、物覚えが悪くってさ。その時かも」
「そうでしたか。共巣の魔女様のご宿泊を忘れてしまうとは……私も老いが進んだようです」
「あはは。大事なことは忘れたくないものだね〜」
シュトラはまったく気にした様子もなく、いつもの調子で笑う。その自然体な様子に、支配人もほっとしたの安堵の顔をする。
「……さて、実はご相談がありまして。少し、お時間をいただけますか?」
「
「はい。実は、ある荷物の受け取りと、当宿への運搬をお願いしたく思い、お声がけした次第です」
「うん、分かった。まずは話を聞かせて」
シュトラは頷き、支配人に案内されて応接室へと向かった。
―――
ほかほかのシュトラが応接室に入ると、レオニスと同年代と思しき二十代前半の青年が長椅子に腰掛けていた。二人が入室すると、彼は慌てて立ち上がり、軽く頭を下げる。
「お初にお目にかかります、魔女様。じ、自分はスィルトホラ守護騎士隊所属、レマタキス爵士の息子、キニガス・レマタキスと申します!」
どうやら緊張しやすい性格のようで、声が少し上ずっている。守護騎士という肩書に似合わず、威厳のない風体だ。
「こんばんは。あたしは迅速の魔女、シュトラ・シュッツシュライン。依頼って話だけど、二人からってことでいいの?」
「ええ、そうです」
シュトラが椅子に腰掛け、手近なクッションを抱え込むと、二人もそれぞれ着席する。
従業員が茶と菓子を運んできて並べると、シュトラはクッキーを頬張り、緩い笑顔を見せる。
「よく揉めるからね、先に言っとくよ。値段交渉は受けない。他所は知らないけど、共巣の魔女は気高く、自分を安売りする旨を良しとしないんだ」
気さくな態度のシュトラにそう言われても、説得力があるかは怪しい。だが、世間一般における
「承知しております。高額でも構いません。我々はそれだけの価値があると考え、シュトラ様に依頼したく、この場を設けさせていただきました」
「そういうことなら、聞かせて」
「実は、私の孫娘とキニガス君は婚約関係にあり、夏の舞踏祭にて結婚式を挙げる予定でして」
「おおっ、おめでたいね!」
「ありがとうございます!」
「孫娘の晴れ舞台ですからね。中央の流行に合わせた豪華なドレスを用意したくて、一昨年、ネオシモ領ケノフォラにある有名な服飾店に注文したのですが……」
「最服飾店と素材の卸屋が揉めていたそうで、未だに届いていないのです」
「完成してないなら仕方ない……けれど出来てるのに届かない、間に合わない、ってのは確かに残念だね」
「ええ。せめて、できあがっている部分だけでも持ち帰っていただけたらと。状況の確認と、可能であれば回収をお願いしたいのです」
支配人が机の上に置いたのは、レマタキス爵士家からの委任状、簡易な地図、そして晶貨が詰まった革袋だった。
シュトラはまず地図を手に取り、指で距離を測りながら問いかける。
「期限は?」
「明後日の昼までです」
「未完成だった場合、こっちで続きを仕立てるにはどのくらいかかりそう?針子さんを用意するにしてもさ」
「早く到着してくれれば、両家が総動員で準備できます」
「ふむ…。よし、受けてもいいよ。料金は片道4200エフカニス、荷物があった場合は帰りに1000追加。結果に関係なく、それだけ払えるなら」
合計9400エフカニス。普通の働き手であれば50から60日間の給金に近い。
「問題ありません。可愛い孫娘のためなら、1エフカニスたりとも惜しみません」
「妻の結婚式、これ以上ない晴れ舞台を憂いなく行いたいのです!」
「へへっ、いい返事だね!じゃあ、今から最速で向かうよ。首を長くする間もなく帰ってくるから!」
勢いよく立ち上がったシュトラは、さらに盛られたクッキーを数枚口に放り込み、委任状を握りしめて、嵐のように部屋を後にし。目を瞬かせた男二人は、顔を見合わせ、まだ渡していない物があることに気付き、慌てて彼女の後を追っていった。