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風、そして君のぬくもり
風、そして君のぬくもり
ムース好き猫
現実世界ラブコメ
2025年07月08日
公開日
4.3万字
連載中
三年尽くした恋は、彼女の心に他の男がいたと知り崩れた。名ばかりの恋人をやめ、高橋和樹は静かに留学を決意する。切なさと決別の物語。

第1話

「お父さん、お母さん。俺、留学することにした」


電話の向こう、海を隔てた両親の声には抑えきれない安堵が滲んでいた。


「和樹、やっと思い直してくれたんだね!お父さんもお母さんも、ようやく肩の荷が下りたよ。すぐに準備して、こっちでの手配も始めるね。1か月後には一緒に暮らせる」


「分かった」

だが、高橋和樹の声には抑揚がなかった。


短い挨拶の後、通話は終わった。


部屋の灯りは点けておらず、窓の外の東京の夜は深く沈んでいて、わずかに赤みを帯びた彼の目元を照らし出していたが、その感情は読み取れなかった。


それから30分後、玄関の扉が開く音がした。


和樹はいつものように立ち上がらず、天井の灯りがぱっと点くのをただ見ていた。


鈴木凛子は靴を履き替えてリビングに入り、ソファに座っている彼に気づいた。


「まだ起きてたの?」


「待ってた。メッセージ、見てないのか?」

声は少し低く沈んでいた。


「研究室の仕事が忙しくて、見る暇もなかったの」

彼女は軽くそう答えて、上着を脱ぎ出し、浴室へと向かった。


水音が聞こえ始めた頃、テーブルに置いた彼女のスマホが光った。


昼間耳にした話が蘇り、和樹の指が動いた。


スマホのロックを解除し、画面を開いた。


送信者のアイコンは青い機械仕掛けのクマで、名前は拓真だった。


「凛子、今日のいちご大福、最高だったよ!ありがとう!」


「無事に帰宅!」


親しげな言葉が目に刺さる。和樹は指を滑らせ、昨夜9時のメッセージを見つける。


「今日、成田空港に着いたよ。迎えに来てくれる?」


それに対する返信は即座だった。


「住所は?」


昨夜、凛子が帰宅したのは8時50分。


シャワーを浴びで1時間も浴室にこもっていたのは、この返信をしていたからか。


和樹は伏し目がちに睫毛を震わせ、唇をかたく引き結んだ。彼はそのトークを閉じ、自分のアイコンを開く。表示名は「和樹」。


「傘忘れるなよ」「昼、ちゃんと食べた?」「このスーパーの特売すごい」「今日見た子犬、めっちゃ可愛かった」――


画面いっぱいに広がるのは、彼が送った白い吹き出し。びっしりと数十件。だが、返事は一つもなかった。


その温度差は、名ばかりの恋人関係がこれ以上なく滑稽である証明であった。


去ると決めたせいか、それとも本当に心が冷めたのか――この現実を受け入れた和樹には、不思議と痛みはなかった。彼は静かにスマホを置き、思考の渦に沈んだ。


凛子との出会いは、桜原大学の入学式。彼女は新入生代表として登壇し、そのあまりにも整った顔立ちは瞬く間に話題をさらい、ミスキャンパスの座を圧倒的な人気で勝ち取った。


彼女を追いかける男たちは数知れず、いろんな人気男子でさえ敗れ去った。


和樹もまた振られた一人だったが、彼は粘り強かった。


一年をかけて二三十回告白した末に、ようやく彼氏の座を勝ち取った。


けれど、付き合い始めてからも彼女は冷たかった。


メッセージは無視され、電話も出ない。


口数は極端に少ない。それでも和樹はますます尽くし、三年が経つ頃には「彼女はそういう性格なんだ」と、受け入れるようになっていた。


しかし、半月前、彼女のパソコンを借りて自分のノートを修理していた時、誤って開いたフォルダには、同じ男の写真が何千枚も並んでいた。


彼はその中の一枚をこっそりコピーし、あちこち聞き込みをして、ようやく真相を知る。


その男の名は伊藤拓真。彼女の幼なじみだった。周囲では2人が特別に親しいことは有名だった。


高校卒業後に彼女が告白しようとしたが、「ずっと友達でいよう」と言われて断られたという噂もあった。


その後、拓真は海外へ行き、彼女は桜原大学に進学した。


つまり彼女は、冷淡なのではなく、心を捧げた相手が他にいたのだ。


それを知った和樹は、この半月、呆然としていた。問いただそうとしたが、聞く前にまた別の話を耳にする。


――彼女が付き合いを承諾したのは、新しい恋で古い傷を覆い隠すためだ、と。


もし拓真がいなかったなら。たとえ彼女の心が開かずとも、十年かけて温め続ける覚悟もあった。


なにせ、彼女にとっては唯一公にされた恋人なのだから。


だが、真実を知った今、三年も報われなかった彼の心は、初めて疲れを感じていた。


彼女の「忘れるためのスペア」にはなりたくなかった。


素敵な女性である彼女を心に宿したまま、距離を取るのだ。


だから、和樹は静かに去ることを決めたのだ――何も告げずに。

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