「お父さん、お母さん。俺、留学することにした」
電話の向こう、海を隔てた両親の声には抑えきれない安堵が滲んでいた。
「和樹、やっと思い直してくれたんだね!お父さんもお母さんも、ようやく肩の荷が下りたよ。すぐに準備して、こっちでの手配も始めるね。1か月後には一緒に暮らせる」
「分かった」
だが、高橋和樹の声には抑揚がなかった。
短い挨拶の後、通話は終わった。
部屋の灯りは点けておらず、窓の外の東京の夜は深く沈んでいて、わずかに赤みを帯びた彼の目元を照らし出していたが、その感情は読み取れなかった。
それから30分後、玄関の扉が開く音がした。
和樹はいつものように立ち上がらず、天井の灯りがぱっと点くのをただ見ていた。
鈴木凛子は靴を履き替えてリビングに入り、ソファに座っている彼に気づいた。
「まだ起きてたの?」
「待ってた。メッセージ、見てないのか?」
声は少し低く沈んでいた。
「研究室の仕事が忙しくて、見る暇もなかったの」
彼女は軽くそう答えて、上着を脱ぎ出し、浴室へと向かった。
水音が聞こえ始めた頃、テーブルに置いた彼女のスマホが光った。
昼間耳にした話が蘇り、和樹の指が動いた。
スマホのロックを解除し、画面を開いた。
送信者のアイコンは青い機械仕掛けのクマで、名前は拓真だった。
「凛子、今日のいちご大福、最高だったよ!ありがとう!」
「無事に帰宅!」
親しげな言葉が目に刺さる。和樹は指を滑らせ、昨夜9時のメッセージを見つける。
「今日、成田空港に着いたよ。迎えに来てくれる?」
それに対する返信は即座だった。
「住所は?」
昨夜、凛子が帰宅したのは8時50分。
シャワーを浴びで1時間も浴室にこもっていたのは、この返信をしていたからか。
和樹は伏し目がちに睫毛を震わせ、唇をかたく引き結んだ。彼はそのトークを閉じ、自分のアイコンを開く。表示名は「和樹」。
「傘忘れるなよ」「昼、ちゃんと食べた?」「このスーパーの特売すごい」「今日見た子犬、めっちゃ可愛かった」――
画面いっぱいに広がるのは、彼が送った白い吹き出し。びっしりと数十件。だが、返事は一つもなかった。
その温度差は、名ばかりの恋人関係がこれ以上なく滑稽である証明であった。
去ると決めたせいか、それとも本当に心が冷めたのか――この現実を受け入れた和樹には、不思議と痛みはなかった。彼は静かにスマホを置き、思考の渦に沈んだ。
凛子との出会いは、桜原大学の入学式。彼女は新入生代表として登壇し、そのあまりにも整った顔立ちは瞬く間に話題をさらい、ミスキャンパスの座を圧倒的な人気で勝ち取った。
彼女を追いかける男たちは数知れず、いろんな人気男子でさえ敗れ去った。
和樹もまた振られた一人だったが、彼は粘り強かった。
一年をかけて二三十回告白した末に、ようやく彼氏の座を勝ち取った。
けれど、付き合い始めてからも彼女は冷たかった。
メッセージは無視され、電話も出ない。
口数は極端に少ない。それでも和樹はますます尽くし、三年が経つ頃には「彼女はそういう性格なんだ」と、受け入れるようになっていた。
しかし、半月前、彼女のパソコンを借りて自分のノートを修理していた時、誤って開いたフォルダには、同じ男の写真が何千枚も並んでいた。
彼はその中の一枚をこっそりコピーし、あちこち聞き込みをして、ようやく真相を知る。
その男の名は伊藤拓真。彼女の幼なじみだった。周囲では2人が特別に親しいことは有名だった。
高校卒業後に彼女が告白しようとしたが、「ずっと友達でいよう」と言われて断られたという噂もあった。
その後、拓真は海外へ行き、彼女は桜原大学に進学した。
つまり彼女は、冷淡なのではなく、心を捧げた相手が他にいたのだ。
それを知った和樹は、この半月、呆然としていた。問いただそうとしたが、聞く前にまた別の話を耳にする。
――彼女が付き合いを承諾したのは、新しい恋で古い傷を覆い隠すためだ、と。
もし拓真がいなかったなら。たとえ彼女の心が開かずとも、十年かけて温め続ける覚悟もあった。
なにせ、彼女にとっては唯一公にされた恋人なのだから。
だが、真実を知った今、三年も報われなかった彼の心は、初めて疲れを感じていた。
彼女の「忘れるためのスペア」にはなりたくなかった。
素敵な女性である彼女を心に宿したまま、距離を取るのだ。
だから、和樹は静かに去ることを決めたのだ――何も告げずに。