11時の就寝アラームが鳴ると、凛子はようやく浴室から出てきて、髪を拭きながらスマホを手に書斎へ向かった。
和樹は眉をひそめた。彼女は生活リズムを厳守していて、このアラームは寝る時間の合図のはず。
「もう遅いけど、寝ないのか?」
彼は立ち上がって尋ねた。
凛子はスマホの画面を素早く操作しながら、顔も上げずに答えた。
「課題が終わってないの。もう少し起きてるわ」
付き合って三年、彼女がこんなふうに振る舞うのは初めてだった。
拓真を迎えに行って帰宅したのは夜十時半。普段なら守るはずの就寝リズムを崩し、言い訳も淡々としている。
和樹は何も言わず、自室へ戻った。
寝室は書斎の斜め向かいで、扉越しに様子がよく見えた。
「課題がある」と言っていた彼女の目はスマホに釘づけで、口元には微かな笑みが浮かんでいた。
和樹は少し呆然とした。――彼女も、こんなふうに笑うんだ。
あの笑顔を、自分は一度たりとも見たことがなかった。
彼女は冷たいわけじゃない。自分にだけ、心を開かなかったのだ。
それでいい。三十日後、自分がいなくなれば、彼女は何の遠慮もなく好きな人を追える。
もう手放すと決めたのだ、これ以上、思い悩む必要はない。
翌日の天気は晴れ。
和樹は朝早くに朝食を買って戻り、二人で向かい合って食べた。
食べ終えたあと、凛子は上着を手に取り、出かけようとする。
ふと先週の約束を思い出し、彼は声をかけた。
「今日は土曜だろ?高尾山に夕日を見に行くって話だったじゃないか」
凛子は一瞬足を止めた。
「急に、教授から課題を出されちゃって。ごめん、行けそうにない」
和樹は無言でパンを押し込みうなずく。
和樹がそれ以上何も言わないので、凛子は少し気まずそうに続けた。
「来月なら、多分行けると思う」
以前なら、その一言に胸を躍らせたが、今の彼はただ淡々と答えた。
その反応の違いに、凛子はふと違和感を覚えた。
テーブルの上に置かれた新しい日めくりカレンダーに目を留め、何気なく尋ねた。
「このカレンダー、新しく買ったの?三十日後って、何かあるの?」
和樹は一枚を破り取り、「29」の数字を見せた。
「今朝買ったんだ。ちょっとした、大事な日を忘れないために」
口調はいつも通りだったので、彼女はそれ以上聞かずに靴を履いた。
「いちご大福、あとで買ってくるね。今日は家でゆっくりしてて」
扉の閉まる音が、彼女の言葉をかき消した。
和樹は口角をわずかに引き上げたが、目元は赤く滲んでいた。
朝食を片付けると、大きな袋を引っ張り出し、部屋の中の不要なものを一つ一つ整理し始めた。
埃をかぶったペアカップ、未開封のシェーバー、写真を飾るつもりで買った空のフォトフレーム……
どれも彼が彼女のために選んだものだったが、彼女が使ったことは一度もなかった。
この部屋は、彼が心を込めて整えたが、彼女にとってはただの宿泊所のようなものだった。
――それで構わない。自分が使うことはもうない。
彼が去った後、彼女もいずれこの部屋を出ていくだろう。
ここに残る痕跡は、いずれすべて消える。