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第2話

11時の就寝アラームが鳴ると、凛子はようやく浴室から出てきて、髪を拭きながらスマホを手に書斎へ向かった。


和樹は眉をひそめた。彼女は生活リズムを厳守していて、このアラームは寝る時間の合図のはず。


「もう遅いけど、寝ないのか?」

彼は立ち上がって尋ねた。


凛子はスマホの画面を素早く操作しながら、顔も上げずに答えた。

「課題が終わってないの。もう少し起きてるわ」


付き合って三年、彼女がこんなふうに振る舞うのは初めてだった。


拓真を迎えに行って帰宅したのは夜十時半。普段なら守るはずの就寝リズムを崩し、言い訳も淡々としている。


和樹は何も言わず、自室へ戻った。


寝室は書斎の斜め向かいで、扉越しに様子がよく見えた。


「課題がある」と言っていた彼女の目はスマホに釘づけで、口元には微かな笑みが浮かんでいた。


和樹は少し呆然とした。――彼女も、こんなふうに笑うんだ。


あの笑顔を、自分は一度たりとも見たことがなかった。


彼女は冷たいわけじゃない。自分にだけ、心を開かなかったのだ。


それでいい。三十日後、自分がいなくなれば、彼女は何の遠慮もなく好きな人を追える。


もう手放すと決めたのだ、これ以上、思い悩む必要はない。


翌日の天気は晴れ。


和樹は朝早くに朝食を買って戻り、二人で向かい合って食べた。


食べ終えたあと、凛子は上着を手に取り、出かけようとする。


ふと先週の約束を思い出し、彼は声をかけた。


「今日は土曜だろ?高尾山に夕日を見に行くって話だったじゃないか」


凛子は一瞬足を止めた。


「急に、教授から課題を出されちゃって。ごめん、行けそうにない」


和樹は無言でパンを押し込みうなずく。


和樹がそれ以上何も言わないので、凛子は少し気まずそうに続けた。

「来月なら、多分行けると思う」


以前なら、その一言に胸を躍らせたが、今の彼はただ淡々と答えた。


その反応の違いに、凛子はふと違和感を覚えた。


テーブルの上に置かれた新しい日めくりカレンダーに目を留め、何気なく尋ねた。


「このカレンダー、新しく買ったの?三十日後って、何かあるの?」


和樹は一枚を破り取り、「29」の数字を見せた。


「今朝買ったんだ。ちょっとした、大事な日を忘れないために」


口調はいつも通りだったので、彼女はそれ以上聞かずに靴を履いた。


「いちご大福、あとで買ってくるね。今日は家でゆっくりしてて」


扉の閉まる音が、彼女の言葉をかき消した。


和樹は口角をわずかに引き上げたが、目元は赤く滲んでいた。


朝食を片付けると、大きな袋を引っ張り出し、部屋の中の不要なものを一つ一つ整理し始めた。


埃をかぶったペアカップ、未開封のシェーバー、写真を飾るつもりで買った空のフォトフレーム……


どれも彼が彼女のために選んだものだったが、彼女が使ったことは一度もなかった。


この部屋は、彼が心を込めて整えたが、彼女にとってはただの宿泊所のようなものだった。


――それで構わない。自分が使うことはもうない。


彼が去った後、彼女もいずれこの部屋を出ていくだろう。


ここに残る痕跡は、いずれすべて消える。

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