週末に息子が帰ってくると知り、和樹の母は腕によりをかけて、食卓にご馳走を並べた。
だが玄関の扉が開いた瞬間、夫婦の目に映ったのは、どこか曇った表情を隠しきれない和樹の姿だった。
「和樹、どうしたの?仕事うまくいってないの?それとも、部屋の住み心地が悪いの?」
母がすぐに駆け寄り、心配そうに問いかけた。
公寓からの帰り道、和樹の脳裏には、凛子が向かいの部屋に引っ越してきた光景がずっとこびりついていた。
そのことを悟られまいと、彼は無理に笑みを作った。
「大丈夫。さっきエレベーターで足を踏まれただけだよ」
しかし、息子の表情にこめられた真意を見抜けぬ親などいない。
父も母も、彼の作り笑いを見て、すぐに“嘘だ”と悟った。
けれども、干渉しすぎないのが彼らの方針。
詮索はせず、ただ「早く手を洗って食べなさい」と促すにとどめた。
夕食の席に着いても、和樹の箸は動きが鈍く、せっかくの料理にも上の空。
豚の角煮を口に運んだはずが、空振りしても気づかない。
父が母に目配せすると、母がうなずいてから、箸を置いて静かに語りかけた。
「和樹、パリに来たばかりなんだもの、色々大変なのは当然よ。
何か困ったことがあるなら、話してみて?お父さんもお母さんも力になれるかもしれない」
その優しい声に、和樹の胸の奥が少しだけほぐれた。
グラスのジュースをひと口飲み、逡巡の末に口を開いた。
「……昨日の夜、アパートの前で凛子に会った。……元カノだ」
「……なんだと?」
父の眉がぴくりと動き、手をバンッと食卓に打ちつけた。
「何だその女は!別れたのにまだ付きまとってるのか?……よし、飯食ったら一緒に行ってハッキリ言ってやる!」
その剣幕に、母子は一瞬ビクッと肩を揺らした。
和樹は慌てて父の腕を押さえた。
「違うよ、お父さん。彼女が付きまとってるわけじゃない。
偶然会っただけ。……彼女がなんで俺の近くに引っ越してきたのか、まだ分からない」
それまで黙って息子の様子を見ていた高橋母が、ふと静かに訊ねた。
「和樹……そもそも、どうして彼女と別れたの?」
その問いに、和樹は少し黙り込んだ。
やがて言葉を選びながら、曖昧に語り出した。
「彼女には、子供の頃からずっと一緒の男友達がいてさ……正直、普通の友達とは思えなかった。
……俺、その関係がどうしても受け入れられなかったんだ。
これ以上時間を無駄にしたくなくて、俺のほうから別れを切り出した」
話を聞いた両親の顔に驚きの色が広がる。
高橋父はまた、テーブルをコツンと指先で叩いた。
「そんな“男友達”がいる時点でおかしいんだ。
男と女に“ただの友達”なんてあるわけがない。
二股未遂みたいなもんだ、別れて正解だよ。
お父さんはお前を支持する」
母もうなずいた。
「そうね。いくら顔が良くても、他の男とあやふやな関係のままなら、いくら好きでも距離を置くべきよ。早く決断して正解」
「だから俺も、別れたあとすぐ出てきたんだ。……完全に終わらせるために」
そう言った和樹の顔に、またもや陰りが浮かぶ。
「でも……彼女、パリまで来た。目的もわからないし……正直、ちょっと困ってる」
眉間にしわを寄せる息子を見て、父は即断した。
「悩んでる暇があるなら、電話して聞け!何が目的か、本人に確認すればいい!」
その言葉に、母も頷いた。
「そうね、和樹。
一人で悶々としてるくらいなら、直接訊いたほうがいいわ」
両親の後押しを受け、和樹は意を決してスマホを手に取った。
そこには、名前の登録もされていない、ただの番号が残っていた。
震える指で発信ボタンを押す。
コール音が鳴る間もなく、電話はすぐに繋がった。
受話口から聞こえてきたのは、驚きと喜びが混ざった、あの声だった。
「……和樹?」
親の前で元カノに電話する緊張もあり、和樹の手のひらにはじっとりと汗が滲んでいた。
だが、両親の無言の視線を背に受け、彼は深く息を吸い、はっきりと口を開いた。
「……用件だけだ。
……なんで急にパリに来た?
拓真のこと、好きだったんじゃないのか?」