母の言葉は、ひとつひとつが重い石のように、凛子の心に叩きつけられた。
彼女自身、理屈ではその通りだとわかっていた。
この数日、何度も自分にそう言い聞かせてきたのだ。
だが、目を閉じるたびに脳裏をよぎるのは、和樹とのありふれた思い出ばかりだった。
かつて自分が見過ごしてきたささやかな仕草、拙くも誠実な彼の気遣い、そして彼の瞳に映る唯一の存在が自分であったこと──それらの断片が、無言の波のように繰り返し押し寄せ、理性で築いた堤防を崩していった。
彼女の短くはない人生の中で、“全身全霊で愛されたい”という渇望は、地下深くに埋もれた種子のように、決して芽吹くことはなかった。
拓真こそがその想いを潤す人だと信じていたが、結局彼が与えてくれたのは「友達」という名の距離感だった。
そして、当たり前のようにそばにいた和樹が突然離れていったことで、彼女は息もできぬような苦しさの中で、ようやく気づいた。
──その種は、日々彼が注いできた優しさで、すでに静かに芽を出していたのだと。
だが皮肉にも、その成長を見届ける前に、園丁であった彼は、冷たく、深く傷ついて彼女のもとを去ってしまった。
この遅れてやってきた激しい後悔と罪悪感は、彼女をすっかり飲み込んだ。
理性は崩れ去り、ただひとつの想いだけが残った。
──取り戻したい。彼を。
まるで、それだけが自分の人生のすべてを取り戻す方法であるかのように。
しかし、現実は冷たく残酷だった。
高橋no母の言葉、和樹の拒絶──すべてが明白に示していた。
彼女のあらゆる“近づこう”とする行為は、彼の癒えかけた傷を再び抉る行為でしかなく、彼をますます遠ざけてしまうということを。
今の凛子は、激しい迷いと苦しみに引き裂かれていた。
一方には、心を締め付けるような執着。
もう一方には、“放すことこそ最後の優しさ”だという理性の声。
彼女は、崖っぷちに立たされていた。
進むことも、退くこともできない。
高橋母は、その様子に気づき、言葉を重ねた。
「あなたたちはまだ若いの。人生は始まったばかり。
経験も、人との出会いも、まだほんの一部にすぎない。
なのに、過去の関係に縛られて、自分を閉じ込めてしまっているわ」
そして静かに、しかし力強く続けた。
「和樹の後を追わないで。このままだと、彼の歩みを妨げるだけじゃなく、あなた自身の未来まで台無しにしてしまうわ。
人生は長い。
世界は広い。
過ぎ去った日々を悔やむより、前を向いて進んでごらんなさい。
これから出会う景色は、今まで見たどんなものよりも素敵かもしれないのよ」
その後の入院生活は、凛子にとって静かな時間となった。
和樹が再び病室を訪れたのは、学期が始まる直前のことだった。
まるで時の流れや高橋母の助言が、彼女に何かを気づかせたかのように──凛子の様子は、見違えるほど落ち着いていた。
冷たく人を寄せつけない雰囲気はなくなり、感情に任せて突っ走っていた頃の執着もどこか影を潜めていた。
彼女は、秋の湖面のように静かで澄んでいた。
──これが、二人が本当に“落ち着いて対話した”初めての時間だった。
もう、過去の恋や痛みを蒸し返すことはなかった。
むしろ、未来の話を、これからの道を語り合った。
まるで旧友のように。
凛子は、全快後には日本へ戻り、学業を続けると話した。
もうパリには残らない、と。
その決断を聞いた和樹は、ようやく肩の荷が下りたように穏やかに微笑んだ。
「君ならきっと日本のほうが合ってるよ。前途洋々だ。頑張って」
彼のその笑顔に、凛子の胸がきゅっと締めつけられた。
切ないような、それでも少し救われるような気持ち。
彼女も精一杯の笑みを返した。
「ありがとう。……和樹は? このままデザインを学び続けるの?」
「うん、続けるよ」
彼の声は、未来への自信に満ちていた。
「素敵ね。ヨーロッパで学べるなんて、チャンスがいっぱいある。
いつか、君の作品が一流雑誌に載るのを楽しみにしてる」
それは、心からの賞賛であり、穢れのない祝福だった。
その後も、二人は他愛ない近況や将来の計画を話した。
そして、外の景色に気づいた和樹がふと立ち上がった。
「もうこんな時間だね。
そろそろ帰るよ。
ゆっくり休んで」
彼が病室の出口へ向かう背中を、凛子は黙って見つめていた。
何かが胸の奥でちくりと痛んだ。
その痛みは淡く、けれど確かだった。
思わず声がこぼれた。
「和樹!」
彼は足を止め、振り返る。
「どうかした?」
凛子は、ほんの一瞬迷ったあと──心にずっとしまっていた問いを投げかけた。
「……私たちって、今……“友達”かな?」
わずかに緊張と期待のにじむ声。
和樹は一瞬きょとんとしたが、真剣に考えたあと、少し曖昧ながらもやさしく頷いた。
「……そう、かもね」
その言葉は、弱々しくも温かな光のように、凛子の胸をじんわり照らした。
彼女は、もう片方の手をそっと上げ、彼に小さく手を振った。
静かな別れの合図だった。
和樹も、軽くうなずき、病室をあとにした。
扉が閉まる音が静かに響いた。
外の光も、彼の姿も、その瞬間、完全に断ち切られた。
凛子は窓の外へ目を向けた。
大きな窓の向こうでは、沈みゆく太陽が橙に燃えながら山の稜線に沈んでいた。
だが、分厚い鉛色の雲が四方から押し寄せ、その最後の光すらも容赦なく呑み込んでいく。
空は次第にちぎれて、闇に染まり始めていた。
言葉にならない虚しさと喪失感が、病室を満たしていく。
凛子は、長く、静かに息を吐いた。
そして、疲れ切ったようにそっと目を閉じた。
かすかな呟きが、誰にも届くことなく、病室の静寂の中に溶けていった。
「……日が、沈んじゃったね」