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第27話

母の言葉は、ひとつひとつが重い石のように、凛子の心に叩きつけられた。


彼女自身、理屈ではその通りだとわかっていた。


この数日、何度も自分にそう言い聞かせてきたのだ。


だが、目を閉じるたびに脳裏をよぎるのは、和樹とのありふれた思い出ばかりだった。


かつて自分が見過ごしてきたささやかな仕草、拙くも誠実な彼の気遣い、そして彼の瞳に映る唯一の存在が自分であったこと──それらの断片が、無言の波のように繰り返し押し寄せ、理性で築いた堤防を崩していった。


彼女の短くはない人生の中で、“全身全霊で愛されたい”という渇望は、地下深くに埋もれた種子のように、決して芽吹くことはなかった。


拓真こそがその想いを潤す人だと信じていたが、結局彼が与えてくれたのは「友達」という名の距離感だった。


そして、当たり前のようにそばにいた和樹が突然離れていったことで、彼女は息もできぬような苦しさの中で、ようやく気づいた。


──その種は、日々彼が注いできた優しさで、すでに静かに芽を出していたのだと。


だが皮肉にも、その成長を見届ける前に、園丁であった彼は、冷たく、深く傷ついて彼女のもとを去ってしまった。


この遅れてやってきた激しい後悔と罪悪感は、彼女をすっかり飲み込んだ。


理性は崩れ去り、ただひとつの想いだけが残った。


──取り戻したい。彼を。


まるで、それだけが自分の人生のすべてを取り戻す方法であるかのように。


しかし、現実は冷たく残酷だった。


高橋no母の言葉、和樹の拒絶──すべてが明白に示していた。


彼女のあらゆる“近づこう”とする行為は、彼の癒えかけた傷を再び抉る行為でしかなく、彼をますます遠ざけてしまうということを。


今の凛子は、激しい迷いと苦しみに引き裂かれていた。


一方には、心を締め付けるような執着。


もう一方には、“放すことこそ最後の優しさ”だという理性の声。


彼女は、崖っぷちに立たされていた。


進むことも、退くこともできない。


高橋母は、その様子に気づき、言葉を重ねた。


「あなたたちはまだ若いの。人生は始まったばかり。

経験も、人との出会いも、まだほんの一部にすぎない。

なのに、過去の関係に縛られて、自分を閉じ込めてしまっているわ」


そして静かに、しかし力強く続けた。


「和樹の後を追わないで。このままだと、彼の歩みを妨げるだけじゃなく、あなた自身の未来まで台無しにしてしまうわ。


人生は長い。

世界は広い。


過ぎ去った日々を悔やむより、前を向いて進んでごらんなさい。


これから出会う景色は、今まで見たどんなものよりも素敵かもしれないのよ」


その後の入院生活は、凛子にとって静かな時間となった。


和樹が再び病室を訪れたのは、学期が始まる直前のことだった。


まるで時の流れや高橋母の助言が、彼女に何かを気づかせたかのように──凛子の様子は、見違えるほど落ち着いていた。


冷たく人を寄せつけない雰囲気はなくなり、感情に任せて突っ走っていた頃の執着もどこか影を潜めていた。


彼女は、秋の湖面のように静かで澄んでいた。


──これが、二人が本当に“落ち着いて対話した”初めての時間だった。


もう、過去の恋や痛みを蒸し返すことはなかった。


むしろ、未来の話を、これからの道を語り合った。


まるで旧友のように。


凛子は、全快後には日本へ戻り、学業を続けると話した。


もうパリには残らない、と。


その決断を聞いた和樹は、ようやく肩の荷が下りたように穏やかに微笑んだ。


「君ならきっと日本のほうが合ってるよ。前途洋々だ。頑張って」


彼のその笑顔に、凛子の胸がきゅっと締めつけられた。


切ないような、それでも少し救われるような気持ち。


彼女も精一杯の笑みを返した。


「ありがとう。……和樹は? このままデザインを学び続けるの?」


「うん、続けるよ」

彼の声は、未来への自信に満ちていた。


「素敵ね。ヨーロッパで学べるなんて、チャンスがいっぱいある。


いつか、君の作品が一流雑誌に載るのを楽しみにしてる」


それは、心からの賞賛であり、穢れのない祝福だった。


その後も、二人は他愛ない近況や将来の計画を話した。


そして、外の景色に気づいた和樹がふと立ち上がった。


「もうこんな時間だね。

そろそろ帰るよ。

ゆっくり休んで」


彼が病室の出口へ向かう背中を、凛子は黙って見つめていた。


何かが胸の奥でちくりと痛んだ。


その痛みは淡く、けれど確かだった。


思わず声がこぼれた。


「和樹!」


彼は足を止め、振り返る。


「どうかした?」


凛子は、ほんの一瞬迷ったあと──心にずっとしまっていた問いを投げかけた。


「……私たちって、今……“友達”かな?」


わずかに緊張と期待のにじむ声。


和樹は一瞬きょとんとしたが、真剣に考えたあと、少し曖昧ながらもやさしく頷いた。


「……そう、かもね」


その言葉は、弱々しくも温かな光のように、凛子の胸をじんわり照らした。


彼女は、もう片方の手をそっと上げ、彼に小さく手を振った。


静かな別れの合図だった。


和樹も、軽くうなずき、病室をあとにした。


扉が閉まる音が静かに響いた。


外の光も、彼の姿も、その瞬間、完全に断ち切られた。


凛子は窓の外へ目を向けた。


大きな窓の向こうでは、沈みゆく太陽が橙に燃えながら山の稜線に沈んでいた。


だが、分厚い鉛色の雲が四方から押し寄せ、その最後の光すらも容赦なく呑み込んでいく。


空は次第にちぎれて、闇に染まり始めていた。


言葉にならない虚しさと喪失感が、病室を満たしていく。


凛子は、長く、静かに息を吐いた。


そして、疲れ切ったようにそっと目を閉じた。


かすかな呟きが、誰にも届くことなく、病室の静寂の中に溶けていった。


「……日が、沈んじゃったね」




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