和樹の疑念を察した凛子は、すぐに言葉を継ぎ足して信憑性を高めようとした。
「本当なの。私が無口で人付き合いが苦手なのも……小さい頃から両親がずっと仕事優先で、ほとんど家にいなかったからで。
世界中を飛び回って会議だの商談だの、月に一度家に帰ればいい方で……当然、私のことなんて気にも留めてなかった。
今回の怪我も、命に別状ないって言われたし、どうせ知っても電話一本で終わりよ。
わざわざ飛んでくるような人たちじゃないですから」
その表情は、必死に自然さを装っていた。
彼女の様子から嘘をついているようには見えず、和樹も渋々納得しかけたが――さらに鋭い質問を投げた。
「……じゃあ、拓真は?お前、あいつのことで泣きながら酒飲んでたくせに。
まさか、あいつも来ないのか?」
名前を出された瞬間、凛子の表情が一変した。
誤解を解こうと、声がひときわ大きくなる。
「彼なんて、本当は私のこと……全然大事に思ってなかったわ!あの人に夢中になって、必死で追いかけてたのは、いつだって私の方。
たぶん……あの人は、誰かに好かれてる自分に酔ってただけ。
本当は……私の気持ちなんて、全然見てなかった!」
思いのほか切実な告白に、和樹は一瞬驚いた。
――自分と同じだったのか。
彼女もまた、一方通行の恋に傷ついた側だったのか。
思わず口元が緩みそうになるのを堪え、声の温度を再び冷たく戻す。
「……分かった。
お前が俺を助けて怪我したのは事実だし、その責任は取る。
入院中に必要なことは、俺が対応する。
安心して療養しろ」
それだけ言い残し、彼は彼女に背を向けた。
「和樹っ!」
凛子は思わず呼び止めたが、すぐに「責任を取る」という言葉に希望を見出し、笑顔を浮かべた。
「うん……!ちゃんと先生の言うこと聞いて、早く治すから!」
――彼が“来る”限り、まだチャンスはある。
そう信じて、彼女は笑った。
だが和樹はその笑顔に応えることなく、逃げるように病室を後にした。
* * *
翌朝。
凛子は早くから目を覚まし、ベッドの上で身だしなみを整えながら、彼の来訪を今か今かと待っていた。
だが、ドアを開けて入ってきたのは――保温容器を手にした高橋の母だった。
ぱっと消えた光を、凛子は必死に隠しながら、そっと尋ねた。
「……あの、和樹くんは……今日は来られないんですか?」
保温容器をベッド脇に置きながら、高橋の母は一瞥して答える。
「実習先の会社で急に呼ばれたそうよ。これから何日かは、私が代わりに来るから。何かあれば、私に言ってちょうだい」
その声音には、はっきりとした線引きが感じられた。
凛子の心は、急速に冷えていった。
だが諦めきれず、なおも食い下がる。
「……最近、彼、そんなに忙しいんですか?ほんの少しでも……下校のついでに顔出すくらいの時間も……ないんでしょうか……」
それは、無意識に滲み出た哀願だった。
母の胸には、命懸けで息子を守った彼女への感謝が確かにあった。
だが、それだけで息子の意思をねじ曲げることはできない。
保温容器の蓋を開け、湯気の立つ味噌汁を器によそいながら、彼女は静かに、だがはっきり言った。
「忙しいかどうかの問題じゃないのよ。
あなたたちは、もう別れたの。
しかも、すぐじゃない。
距離もできてる。
和樹はもう、あなたに心を向けていないのよ。
今ここに来たところで、ただ気まずいだけ。
彼にとってはストレスなの。
……それでも、会いたい?」
その一言一言が、凛子の心に鋭く突き刺さる。
否定できない、確かな“現実”だった。
震える指で味噌汁の碗を受け取りながら、彼女はうつむき、小さく呟いた。
「……分かってます。
彼にとって私は、もう迷惑なだけ……
でも……どうしても、諦められなくて……
最後に、もう一度だけ、もし心が揺れてくれるならって……」
それが、彼女の本音だった。
高橋母は、その目をまっすぐ見返しながら、決然と言った。
「ねえ、凛子さん。
あなたがどんな思いをしてたとしても、和樹がここまではっきり拒絶するのは――
もう、限界だったからよ。
我慢に我慢を重ねて、それでも無理だって……そう判断したの。
本当に彼を大事に思っていたなら……
どうして、こんなふうになる前に気づいて、向き合ってくれなかったの?」
突きつけられた問いに、凛子は何も言えなかった。
ただ唇を噛み、顔から血の気が引いていくのを感じるだけだった。
ため息をひとつ、母は言葉を続ける。
「縁っていうのはね、切れるときは切れるの。
無理に引き留めれば、ただの執着になるだけ。
あなたが今していることは、彼の気持ちを取り戻すどころか、
かえって彼を遠ざけてしまってるのよ。
このままじゃ、本当に“赤の他人”どころか、“敵”になってしまう。
……そんな結末、あなたも望んでないでしょう?
若いんだから、未来はまだあるわ。
過去に縋るより、ちゃんと前を向いて、生きなさい」
それは、感情を交えず語られる、静かな拒絶だった。
高橋の母は、これ以上の“関与”を、静かに、だが確実に断っていた。