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第26話

和樹の疑念を察した凛子は、すぐに言葉を継ぎ足して信憑性を高めようとした。


「本当なの。私が無口で人付き合いが苦手なのも……小さい頃から両親がずっと仕事優先で、ほとんど家にいなかったからで。


世界中を飛び回って会議だの商談だの、月に一度家に帰ればいい方で……当然、私のことなんて気にも留めてなかった。


今回の怪我も、命に別状ないって言われたし、どうせ知っても電話一本で終わりよ。


わざわざ飛んでくるような人たちじゃないですから」


その表情は、必死に自然さを装っていた。


彼女の様子から嘘をついているようには見えず、和樹も渋々納得しかけたが――さらに鋭い質問を投げた。


「……じゃあ、拓真は?お前、あいつのことで泣きながら酒飲んでたくせに。

まさか、あいつも来ないのか?」


名前を出された瞬間、凛子の表情が一変した。


誤解を解こうと、声がひときわ大きくなる。


「彼なんて、本当は私のこと……全然大事に思ってなかったわ!あの人に夢中になって、必死で追いかけてたのは、いつだって私の方。


たぶん……あの人は、誰かに好かれてる自分に酔ってただけ。


本当は……私の気持ちなんて、全然見てなかった!」


思いのほか切実な告白に、和樹は一瞬驚いた。


――自分と同じだったのか。


彼女もまた、一方通行の恋に傷ついた側だったのか。


思わず口元が緩みそうになるのを堪え、声の温度を再び冷たく戻す。


「……分かった。

お前が俺を助けて怪我したのは事実だし、その責任は取る。


入院中に必要なことは、俺が対応する。

安心して療養しろ」


それだけ言い残し、彼は彼女に背を向けた。


「和樹っ!」


凛子は思わず呼び止めたが、すぐに「責任を取る」という言葉に希望を見出し、笑顔を浮かべた。


「うん……!ちゃんと先生の言うこと聞いて、早く治すから!」


――彼が“来る”限り、まだチャンスはある。


そう信じて、彼女は笑った。


だが和樹はその笑顔に応えることなく、逃げるように病室を後にした。


* * *


翌朝。


凛子は早くから目を覚まし、ベッドの上で身だしなみを整えながら、彼の来訪を今か今かと待っていた。


だが、ドアを開けて入ってきたのは――保温容器を手にした高橋の母だった。


ぱっと消えた光を、凛子は必死に隠しながら、そっと尋ねた。


「……あの、和樹くんは……今日は来られないんですか?」


保温容器をベッド脇に置きながら、高橋の母は一瞥して答える。


「実習先の会社で急に呼ばれたそうよ。これから何日かは、私が代わりに来るから。何かあれば、私に言ってちょうだい」


その声音には、はっきりとした線引きが感じられた。


凛子の心は、急速に冷えていった。


だが諦めきれず、なおも食い下がる。


「……最近、彼、そんなに忙しいんですか?ほんの少しでも……下校のついでに顔出すくらいの時間も……ないんでしょうか……」


それは、無意識に滲み出た哀願だった。


母の胸には、命懸けで息子を守った彼女への感謝が確かにあった。


だが、それだけで息子の意思をねじ曲げることはできない。


保温容器の蓋を開け、湯気の立つ味噌汁を器によそいながら、彼女は静かに、だがはっきり言った。


「忙しいかどうかの問題じゃないのよ。


あなたたちは、もう別れたの。

しかも、すぐじゃない。

距離もできてる。


和樹はもう、あなたに心を向けていないのよ。


今ここに来たところで、ただ気まずいだけ。

彼にとってはストレスなの。


……それでも、会いたい?」


その一言一言が、凛子の心に鋭く突き刺さる。


否定できない、確かな“現実”だった。


震える指で味噌汁の碗を受け取りながら、彼女はうつむき、小さく呟いた。


「……分かってます。

彼にとって私は、もう迷惑なだけ……

でも……どうしても、諦められなくて……

最後に、もう一度だけ、もし心が揺れてくれるならって……」

それが、彼女の本音だった。


高橋母は、その目をまっすぐ見返しながら、決然と言った。


「ねえ、凛子さん。


あなたがどんな思いをしてたとしても、和樹がここまではっきり拒絶するのは――

もう、限界だったからよ。


我慢に我慢を重ねて、それでも無理だって……そう判断したの。


本当に彼を大事に思っていたなら……


どうして、こんなふうになる前に気づいて、向き合ってくれなかったの?」


突きつけられた問いに、凛子は何も言えなかった。


ただ唇を噛み、顔から血の気が引いていくのを感じるだけだった。


ため息をひとつ、母は言葉を続ける。


「縁っていうのはね、切れるときは切れるの。


無理に引き留めれば、ただの執着になるだけ。


あなたが今していることは、彼の気持ちを取り戻すどころか、

かえって彼を遠ざけてしまってるのよ。


このままじゃ、本当に“赤の他人”どころか、“敵”になってしまう。


……そんな結末、あなたも望んでないでしょう?

若いんだから、未来はまだあるわ。


過去に縋るより、ちゃんと前を向いて、生きなさい」


それは、感情を交えず語られる、静かな拒絶だった。


高橋の母は、これ以上の“関与”を、静かに、だが確実に断っていた。


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