あてもなく走り続ける。
真っ暗な森の中を、ただひたすらに。
どちらに行けばいいのか、どの方角に進めばいいのか、何処に逃げたらいいのか。
そんなことなんて、分からない。
でも、立ち止まったら終わりだ。
ううん、分かってる。分かってるのに、気を抜けばすぐ、弱気の虫が顔を出す。
「んあっ……!」
躓いた。張り出した木の根。
足音が、物音が近くなった。そんな気がした。
痛む膝。土に塗れた靴。
泣きたくなる気持ちを抑えながら、立ち上がる。
後ろを見る。
暗くてよく見えないが、とりあえずは誰もいないようだ。
ふらつきながら、再び走り出す。
……どうして、こんな事になってしまったんだろう。
考えても、いくら考えても、答えなんて出ない。
私達──私達のパーティ“翠の鷹”は、最近Bランクに昇格した、自分で言うのもなんだけど、新進気鋭の冒険者だ。
メンバーは魔術師である私と、戦士のヴィクトル、僧侶のエレナ、そしてリーダーである剣士のアレク。
私達は全員幼馴染で、小さな頃からの夢──大きくなったら四人でパーティを組んで冒険する──を叶えるために努力してきた。
夢を叶えた今も、もっと広い世界を見るために、更に努力を重ねてきた。
そのはず、だったのに。
知らず知らず、涙が零れてしまう。
悔しい。本当に悔しい。
こんなことで、私達の夢が終わってたまるものか。
息が上がっているけど。
心臓が飛び出てしまいそうなくらいに、大きな音を立てているけど。
それでも、私は夜の森の中を走り続ける。
生きたい。生き延びたいよ。
声に出せない声を噛み殺しながら。
短剣のような形の葉が、私の腕を裂いても。
鞭のような蔓が、私の頬を叩いても。
何かよくわからない生き物が這い登ってきても。
私は足を止める訳にはいかなかった。
何分?
何十分?
何時間?
時間の感覚なんて、もう無い。
どれだけ走った?
距離なんて、分からない。
どうして、ここから出られないの?
自分自身さえ、信用できなくなりそうになる。
何処かから聞こえてくる梟の声。
怖い。怖いよ。
気が付けばいつも仲間が居た。仲間が居るのが当たり前だった。
悲しいときも、嬉しいときも、心配なときも、恐怖で身が竦みそうになるときも。
仲間がいたから、乗り越えられた。
みんな、無事でいて……。
逃げるときにはぐれてしまった他の仲間のことを思いながら、私はただ、走り続ける。
不意に、生ぬるい風が吹いたような、そんな気がした。
思わず後ろを振り返る。
闇。
青くて、緑で、湿り気を帯びた闇。
静かで、木の葉の揺れる音もしない。
何もいない。
何も見えない。
だからこそ、“何かがいた”ような気がした。
悲鳴を上げたくなる衝動を必死で堪えながら、私は思い切り駆け出した。
前も、後ろも見ずに。
どんな風に進んだかなんて、覚えていない。
気が付けば、一本の巨木を中心に、木々に囲まれた開けた場所に出ていた。
ここは、私達が野営をしていた場所だ。
正確には、私達と、もう一つのパーティが。
雲の隙間から漏れた月明かりが、僅かに周囲を照らす。
……倒れている、人影が見えた。
嫌な予感がした。
心の中で否定しても否定しても、拭い切れない真っ黒な靄。
呼吸を整えながら、ゆっくりと近付いていく。
見覚えのある脛当て。
見覚えしかない鎧は強い力で破壊され、左肩から左胸にかけてがひしゃげている。
ヴィクトル、だった。
目は虚ろに開かれて、口からは大量の血を流している。
日焼けした顔には霜が降りていて、唇が紫色に変色している。
氷雪系の魔法を、使われたんだ。
私は思わず唇を噛む。
料理が上手で、干し肉のスープがとても美味しかったこと。
お酒に弱くて、酒場に行ってはアレクに背負われて帰って来てたこと。
普段は寡黙な彼が、エレナに結婚を申し込んだんだと、照れたように微笑んでいたこと。
二人で近々指輪を買いに行くんだと、幸せそうに微笑んでいたこと。
どうして、彼が死ななければならなかったの。
「……ううぅ…………」
悔しさのあまり、奥歯を噛み締める。
そして、エレナがいないことに気付く。
せめて無事でいてほしい。
そんなささやかな願いは、すぐに打ち砕かれた。
少し離れた草地の上で横たわる影。
エレナだった。
ローブはビリビリに破り捨てられて、彼女は裸にされていた。
何をされたかは分かる。でも、分かりたくない。頭が、心が、理解を拒否している。
顔は大きく腫れ上がって、首には赤黒い指の跡が残っている。
「あああ…………!」
足から、力が抜ける。立っていられない。
ひどい。ひどすぎるよ、こんなの。
一緒にお茶をしたことも、一緒に服を選んだことも、時々、恋バナをしたことも。
お勧めの香水とかアクセサリーとかも教えてもらったよね。
今度一緒に、ドレスを見に行こうって話してたのに。
そんな何気ないことも、もう二度と叶わない。
夢。悪い夢だったらいいのに。
それならば、目覚めたら全てが無かったことになるのに。
でも、これは、現実なんだ。
「うう……アレク……」
縋れるのはもう、アレクしかいなかった。
四つん這いになりながら、必死で周囲を見回す。
彼が“いない”ことを、祈りながら。
でも。
「あっ、ああっ……!」
見つけてしまった。地面に横たわるアレクの姿を。
ゆっくりと近付く。
ゆっくりとしか、近付けなかった。
太腿に、何本も矢が刺さっている。
脇腹が抉れて、内臓がはみ出している。
右腕の、肘から先が無かった。
「いっ、いや、いや…………!」
そこから先は、声が出なかった。
喉の奥で、息が詰まる。
空気の塊が口を塞いで、息を吸うことだって出来ない。
私の中で、何かが壊れたような音がした。
小さい頃からの絆が、大切な仲間が、たった一晩で無くなってしまうなんて。
ヴィクトルもエレナもアレクも、みんなみんな……。
「……ぁ……アリ……ア…………」
風が吹けばかき消されてしまうような声。薄く開かれた唇から発せられたのは、確かにアレクの声だった。
「お……まえ…………だけ、で……も、に…………げ……」
嫌だ。アレクを置いて逃げるなんて出来ないよ。
ヴィクトルもエレナも死んじゃった今、私にはもうアレクしかいないの。だから……
「……ごめ……な……、……おれ……、の……せい…………」
それきり、アレクは何も喋らなかった。
小さい頃から一緒で。
しょっちゅう喧嘩もしたけど、すぐに仲直りして。
昔、森の中で遊んでて野犬に囲まれたとき、助けてくれたこともあったよね。
アレクのお父さんが亡くなったときは、私が一晩中、泣いてる彼の傍にいてあげたっけ。
誰かを守るために剣術を習い始めて、私はアレクの近くにいたかったから、魔術を習い始めて。
いつでも一番近くにいたのに、一番素直になれなかった相手。
「ああああああっ! やっ、いやあ、アレク、アレク、アレク、いやだ、やだ、やだよ、そんなの、げほっ! がほっ! ううっ、ううぅ……」
泣くことしか出来なかった。
泣いても何も変わらないのは、分かってる。理解してる。身に染みてる。
私はなんて弱いんだろう。
仲間がいなければ、何も出来ない。
遠くから、草を踏む音がした。
逃げなきゃいけないのに。
アレクに、お前だけでも逃げろって言われたのに。
もう、立ち上がれない。もう……歩けないよ。
体が重い。
話し声が聞こえてくる。
聞きたくない。
“あの人達”が同じ人間だなんて、思いたくない。信じたくない。
この世で一番怖いのは、魔法しか通じない魔物じゃない。
病気を媒介する化けネズミでもない。
人間、なんだ。他人を、自分達より弱い者を、平気で踏み躙るような。
囲まれた。
もう、逃げられない。
この世界には神様なんていない。
この世界には奇跡なんてない。
この世界には、都合の良い展開なんて存在しない。
希望もない。あるのは、絶望だけだ。
「あ……」
私が最期に見たのは、振り下ろされる戦鎚だった。