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第7話 棘の森

 町を出て街道を西に半日ほど進めば、旧交易路の山越えルートへと向かう分岐点が見えてくる。

 分岐点を道に沿って北西に進み、更に半日ほど歩けば、サルヴァ山の登山口に到達する。

 登山口にはちょっとした規模の集落が形成されており、かつては西側諸国との最短経路として、幾多の商隊や冒険者で賑わったという歴史の片鱗が覗える。

 現在でこそ、より安全性の高い別の街道が整備されているものの、サルヴァ山越えは依然として西側諸国への最短経路であることには変わりなく、その重要性は変わってはいない。

 このルートを利用する商隊や冒険者が減ったのは確かだが、現在では山越えの道を整備する者を相手に、集落が拠点の役割を果たしているという。

 だが、グレイが目を付けたのは、サルヴァ山でも集落でもない。集落から南西方向に少し離れた場所、サルヴァ山南部の麓に広がる森だった。

 “棘の森”。

 モミやヒノキ、ヒバやネズなどの針葉樹が生い茂る森林地帯。

 林床を覆う植物はノイバラやイラクサなどの棘を持つ植物が大部分を占めている。

 食用となる木の実や山菜などが採れる訳ではなく、また棘のある植物が繁茂するということも障害となり、付近の住民はおろか冒険者もほとんど立ち入らないような場所である。

 人が立ち入らない場所というものは、何かと都合が良い。特に、他人に知られる訳にはいかない行為──例えば、殺人などの重犯罪行為──を目的とする者にとっては。

 もしも情報の通り、『暁の獅子』が失踪・行方不明事件に関わっているとするならば、ここはうってつけの場所だろう。


 グレイが到着したのは、既に夜も時を重ねた頃だった。

 ロコウから情報を得た後、そのまま街を発ち、早歩きというよりは小走りに近い速度で街道を駆け抜けていく。

 草原を越えて森へと辿り着いた頃には、既に真夜中になっていた。

 青白い輝きを放つ満ちた月が、空の頂点から寒々しく地上を照らしている。

 立ち入る者はほとんどいないはずの森。しかし、刈られた下草や踏み倒された小低木が道のように連なり、森の奥へと続いている。

 グレイは屈み込み、刈られた下草を観察する。幸い、今日は月明かりが強い。

 何かしらの鋭利な刃物で斬られたような痕跡。左から右へと薙ぐように、刃が動いたであろう切り口。

 切り口とその下の茎が茶色く変色していることから、昨日今日に刈られたばかりのものではない。

 彼は立ち上がり、聴覚に神経を集中させる。

 風の無い夜。聞こえてくるのは、草が微かに揺れる音と小動物と思しき鳴き声、そして梟の声。

 自分以外に人の気配が感じられないことを確認すると、彼は慎重に歩を進めていく。

 時折現れる湿った地面。黒茶色のそれには、複数の足跡が残っている。

 一際大きな足跡に指を入れ、深さを測る。

 おおよそ中指の第二関節程度の沈み込み。足跡の大きさと深さから推測するに、大柄で重装備の男のものだろう。

 足跡に向けていた顔を上げていく途中で、グレイは草むらに何かが引っ掛かっていることに気付いた。

 体で言えば脛から膝辺りの高さ。イラクサの棘に引っ掛かっていたのは、布切れというには小さすぎる布の断片だった。

 僅かに月明かりが差し込むとはいえ、暗闇に近い夜の森。しかしその布の断片は、暗闇の中でさえ異彩を放つような、艶めく光沢のある黒を纏っていた。

 グレイは慎重に棘から引き抜くと、それをコートの内側から取り出した革袋に仕舞う。

 他に痕跡となるようなものは確認できない。彼は再び、ゆっくりと森の奥へと進んでいく。

 刈られた草を、底の硬い靴が踏む音。

 時折、湿度を帯びた冷気が、木々の間をすり抜ける。

 針葉樹林特有の、鼻の中で揮発するような匂い。

 濡れた草のにおい。

 淀んだ水が染みた土の臭い。

 グレイの気配に、光を放つ虫が一匹、草の陰からふわふわと飛び立つ。

──まるで死者の魂のようだ。

 グレイはそう思った。

 天に昇り切ることも、地に沈むことも出来ぬままに中空を彷徨う形無きもの。

 木々の隙間から所々漏れ落ちている月光に紛れ、虫は何処かに行ってしまった。

 道の先に視線を戻せば、枝葉の間から開けた空間が窺える。

 足早に向かえばそこは、針葉樹に囲まれた、広葉樹の大木を中心とする広場のような空間だった。

 地表を覆う、踝程度の丈の草。その中に、グレイは何やら光るものを見つけた。

 鋭く尖った緑色の破片。

 月明かりに透かしてみれば、曇りガラスのように鈍く光を通している。

 ガラスではない。緑柱石でもない。これは、翡翠だ。

 サファイアやルビーなどに比べて軟らかく加工がしやすい反面、傷が付きやすいことでも知られる宝石。

 しかし最大の特徴は、その“割れにくさ”だろう。

 結晶が複雑に絡み合った構造は、極めて強い靭性を与え、独特の光沢の由来ともなっている。

 その翡翠が割れたような形状になっているのは、つまり。

 周囲を見渡せば、細かい緑色の破片が散乱していた。

 拾い上げられる大きさのものだけを左手に乗せ、掌の上で大まかに形を作る。

 金貨程度の大きさの円形。更には何かが彫られているような形跡がある。

『鷹の紋様が彫られた──そうだな、金貨と同じくらいの大きさのメダリオンを持っているらしい。緑色のな』

 ロコウからの情報を思い出す。

 これは、“そういうこと”、なのだろう。

 更に草の中を慎重に捜索する。

 革紐の切れ端、黒いボタン、白い木の破片、薄い布切れの断片。

 “何か”があった痕跡は見つかるが、それが“何であるか”を明確に断定するには至らない、証拠とは言えないような証拠。

 重ねて草の中を丹念に捜索している途中で、彼はあることに気付く。

 不自然に草が生えていない場所がある。

 長方形に地表が露出し、地面は焦げて硬質化している。

 大きさは人間二人分を並べて寝かせた程度だろうか。

『魔術師のルシア。年齢は二十六歳。二つ名は“輝きの障壁”』

 スマルトから聞いた情報が思い浮かぶ。

──障壁で周囲と上を囲いながら圧力を掛け、更に火炎魔法を使ったとしたならば。

 思い付きにしては悪趣味過ぎる想像に、グレイは思わず右眉を上げる。

 だが、人間という生き物は、時に想像を遥かに超えるような悍ましい行為に走ることもある。

 そして、彼はそれをよく知っていた。

 立ち上がり周囲を見渡すが、他に痕跡らしきものは見当たらないようだ。

──丁度、身体も休息を欲していた。

 グレイは中心に聳える大木の下に佇むと、見上げながらめぼしい太さの枝を探す。

 人間一人が乗ってもびくともしない程度の、太い枝。

 やや傾き始めている月の光が照らしたそれを見据え、彼はコートの内側から鞭を取り出した。

 光沢のある黒い革製の、長さは彼の身長の三倍はあるであろう鞭だ。

 指三本分程度の太さはある鞭をしならせると、グレイはそれを真上へと放った。

 根元よりも僅かに細くなっている先端が、さながら大蛇を思わせる勢いで枝に巻き付く。

 二、三度、鞭を引っ張り確認すると、巻き付いている先端を支点に、幹を思い切り蹴りつけ、半円の軌道を描くように跳躍した。

 見世物の軽業芸よろしく、彼はそのまま、枝に降り立つ。

 それがさも当たり前のことだと言うように、グレイは幹に背を預けながら、枝の上で束の間の安息を味わう。

 ロコウに押し付けられた、ポケットに入れっぱなしだったサンドイッチ。黒パンにハムとチーズと酢漬けのタマネギを挟んだそれを食みながら。

──街に戻るのは、日が昇ってからだ。走れば、夜には着く。

 虚空を見つめながら、彼は心の中で呟いた。

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